平岩親吉の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 平岩親吉の死因は病死
- 西暦1611年2月1日(旧暦・慶長16年12月30日)、享年70歳に亡くなった
- 死ぬ前に、毒饅頭を食して豊臣秀頼を暗殺しようとしたといわれている
- 平岩親吉には子供がいなかったので、直系子孫はいない
- 死後、大坂の陣という歴史的事件が起こった
この記事では、平岩親吉の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
平岩親吉の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、平岩親吉の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
目次
平岩親吉の【死因】と【最後の様子】
平岩親吉の【死因】
【結論】平岩親吉の死因は病死。詳しい病名は不明です。
後述しますが、平岩親吉には、【毒饅頭を食べて亡くなった】という逸話が残されています。
しかし実際のところ、平岩親吉が毒饅頭を食べて亡くなったというのは、作り話で、可能性が低いと思われます。
平岩親吉が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1611年2月1日(旧暦・慶長16年12月30日)、享年70歳
平岩親吉の子孫の現在
【結論】平岩親吉の直系子孫は、断絶している。
平岩親吉には跡取りがいなかったため、甥の平岩吉範が跡を継いでいたとされます。
ところが、その甥も亡くなり、そのあと親吉の血を引く平岩氏は断絶してしまいました。
徳川家康は、平岩親吉の家が断絶することを残念に思っていました。
そのため自分の八男である松平仙千代を平岩親吉の養子として、平岩家を継がせようと考えていました。
ところが、その松平仙千代が、幼くして病死してしまいます。
こうして平岩家は断絶。しかし、親吉と同族の平岩一族は、徳川義直の家臣として存続し、今も関西で続いているといわれています。
一説によると、平岩親吉には隠し子がいたともいわれています。
家康は親吉の死後、その隠し子を産んだという女性を見つけ出して、家を継承するように説得したものの、この女性が頑なに平岩親吉の子ではないと言い張り、結局その子が平岩家を継承することはなかったのでした。
親吉は自分の領地は、主君である家康の九男・義直に相続させるように遺言したといいます。
また、親吉には兄二人・弟二人・妹四人がいましたが、もしかするとその子孫が、今も続いているかもしれません。
【平岩親吉の生涯と最期】をザッと解説
平岩親吉の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち
平岩親吉は、天文11年(1542年)に三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町坂崎)に生まれました。
父は徳川家康の重臣だった平岩親重という人物です。
親吉は、主君の徳川家康と同年齢だったために、徳川家康が今川義元の人質として駿府へ送られたときにも同行しています。
徳川家康の信任が厚かったことから、家康に付き従って、三河統一戦・遠江平定戦など、家康の若い頃の戦ほぼすべてに参戦しているのです。
松平信康の死と、平岩親吉の関係
平岩親吉にとって、人生最大の危機は、信康事件でしょう。
信康事件とは、徳川家康の嫡子・松平信康が切腹した事件です。
天正7年(1579年)、織田信長により徳川家康の嫡男・松平信康の切腹が要求されたといわれています。
信康の傅役すなわち教育係だった親吉は、自らの責任を取り、信康の命を守るために自らの首を信長に差し出すことを家康に求めました。
しかし、家康は息子・信康の処断を決意。結局は松平信康は切腹して亡くなってしまうのでした。
その後、平岩親吉は謹慎処分となっています。
後に家康に許された親吉は、再び家康の直臣として復帰。
しかし、信康切腹が信長の命令によるものという通説には疑問点も多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説が有力とされています。
信康が、徳川家康に反抗したため、家康は自ら積極的に息子の信康を処罰したです。
近年の研究では、この一件で織田信長は、何の命令も下してはいないとされています。
つまり平岩親吉は、信康の教育係でありながら、その教育に失敗し、父である徳川家康に反抗するような息子を育ててしまったため、謹慎したということです。
ちなみに、信康の処刑の際、処刑する役を与えられた服部半蔵は、涙で処刑することができなかったといいます。
平岩親吉の最期!毒饅頭を食べて亡くなったの?
平岩親吉は、1611年、徳川家康の九男である徳川義直の居城である名古屋城二の丸で病死しました。
享年70歳。
信康が亡くなった後、親吉は犬山城を与えられて、徳川家康の九男である徳川義直の家老つまり補佐役に任命されていたのです。
犬山城天守閣
彼の死については、毒饅頭説があるものの、史実としては明らかにされていません。
毒饅頭説については、あとでくわしく解説いたします。
平岩親吉の最後の行動を解説!毒饅頭を食べて亡くなったの?
【結論】平岩親吉の最後の行動は
毒饅頭をつかって豊臣秀頼を暗殺しようとした、といわれています。
平岩親吉には、毒饅頭を食べて、名将・加藤清正とともに亡くなったという説があります。
1611年、徳川家康は、京都の二条城で、目の上のたんこぶと言って良い豊臣秀頼と会見しました。
このとき、家康は秀頼を毒殺しようとした、というのです。
そして平岩親吉は、毒針が入れられた饅頭を秀頼にすすめ、毒味として自分がまず、毒針の埋め込まれた饅頭を食べて見せたのでした。
ところが、そのことを察知した加藤清正が、毒饅頭を秀頼に代わって食べ、秀頼の身代わりとなって、直後に亡くなったのでした。
平岩親吉もまた、二条城での会見の9ヶ月後に亡くなっています。
しかしこれは、あくまでも逸話・エピソードでしかありません。
ただ、このときの会見から2年以内に、池田輝政や浅野幸長のような、秀頼を守ろうとする歴戦の名将が、次々と亡くなったのも確かなのです。
平岩親吉の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】平岩親吉の死後、【大坂の陣】という事件が起こりました。
平岩親吉が死去した3年後の1614年から1615年にかけて、【大坂の陣】という戦争が起こり、豊臣家が滅亡しています。
親吉が亡くなった当時の日本には、徳川家と豊臣家という、二つの勢力が天下の主導権を争っていました。
圧倒的な力を誇った徳川家は、豊臣秀吉の息子・秀頼をトップとする豊臣家に臣従を迫っていたのです。
ところが、秀頼とその母・淀殿(茶々)は、これを拒絶し和睦、1614年に【大坂冬の陣】が勃発。
【大坂冬の陣】は和睦(仲直り)したが、翌年の1615年に再び起こった【大坂夏の陣】で敗北した豊臣秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡します。
こうして徳川家康の天下統一が、達成されたのでした。
応仁の乱以来つづいた戦乱は完全に終わり、家康の手で開かれた江戸幕府によって、260年に及ぶ長く平和な時代が続くことになるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,平岩親吉の『死因』は?
死因は病死。毒饅頭を食べて亡くなったという説もあるが、信ぴょう性に乏しい。
2,平岩親吉が【亡くなった日時】は?
西暦1611年2月1日(旧暦・慶長16年12月30日)
享年70歳
3,平岩親吉の【最後の様子】とは?
最後の様子は、名古屋城二の丸で病死した
4,平岩親吉の【最期の行動】とは?
毒饅頭の毒味をして、豊臣秀頼を暗殺しようとした
5,平岩親吉の【子孫】とは?
子孫はいない。子供がいなかったため、甥が相続した。
6,平岩親吉の【死後に起こった出来事】とは?
死後に【大坂の陣】という事件が起こった
以上となります。
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