浅井長政の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 浅井長政の死因は、織田信長に攻められたことによる自害
- 1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)に享年29歳で亡くなった
- 浅井長政が死ぬ前に、義兄・織田信長を裏切った
- 長政は、「けふもまた 尋ね入りなむ 山里の 花に一夜の 宿はなくとも」という和歌を残した
- 長政の子孫には、豊臣秀頼・徳川家光がいる。天皇陛下も長政の子孫にあたる
- 長政の死後、本能寺の変・賤ヶ岳の戦いという歴史的事件が起こった
この記事では、浅井長政の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
浅井長政の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、浅井長政の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
浅井長政の【死因】と【最後の様子】
浅井長政の【死因】
【結論】浅井長政の死因は、織田信長に攻撃されたことにより、自害したこと
浅井長政が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)享年29歳
浅井長政の子孫の現在とは?
【結論】浅井長政の子孫には、豊臣秀頼や徳川家光がいる。現在の天皇陛下も、浅井長政の子孫にあたられる
浅井長政の長女・茶々は、豊臣秀吉の側室となって豊臣秀頼を産んでいます。
三女・江は、徳川家康の息子である徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍となる徳川家光を産んでいます。
つまり豊臣秀頼も徳川家光も、浅井長政の孫というわけです。
この三女・江は、徳川秀忠に嫁ぐ前に、秀吉の甥とのあいだに、完子という娘を産んでいます。
完子姫は、江の姉である茶々に育てられ、九条幸家という人物に嫁いでいます。
この完子姫の子孫が、現在の天皇陛下です。
【浅井長政の生涯】を振り返る!長政の生い立ちと家族
浅井長政の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち
1545年、浅井長政は北近江(滋賀県北部)を支配する戦国武将・浅井久政の息子として誕生します。
浅井家は、もともとは室町幕府の名門だった京極家の部下でした。しかしこの頃の浅井家は下剋上で京極家を上回り、今度は南近江(滋賀県南部)を支配していた六角家の部下となっていたのです。
野良田の戦いをご存知でしょうか?
1560年に、16歳の浅井長政が、六角家から独立するために起こした戦いです。
この戦いで、浅井長政は11000人の軍をひきいて、六角軍25000人を撃破したといいます。
こうして浅井長政は、天下にその名を轟かせたのです。
そんな浅井長政に目をつけたのが、織田信長です。
→→→→→【浅井長政とは何をした人なのか?】についてくわしくはこちら
織田信長との同盟
浅井長政は、織田信長の妹・お市の方を妻として迎え入れ、織田信長と同盟をむすびます。
1560年、野良田の戦いで浅井長政が勝利したのと同じ年、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取っています。
その後、織田信長は美濃国・斎藤家を攻撃し、美濃攻めを目指していました。
上洛という言葉をご存知でしょうか?
京都へ向かうことを上洛と呼びます。
織田信長は、京都を占領して天下を支配する際に浅井長政を味方にするため、妹のお市の方を嫁がせたのです。
浅井長政とお市の方が結婚した時期がいつなのかは、諸説あります。1564〜1567年に嫁いだと考えられています。
長政の裏切り!織田信長との対立
1570年、浅井長政は突然織田信長を裏切り、対立することになります。
1568年、織田信長は浅井長政の協力を得て、京都への進軍を開始。三好三人衆などの敵対勢力を追い出して、京都を制圧することに成功します。
織田信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍に就任させて、その後ろ盾となっています。
金ヶ崎の退き口をご存知でしょうか?
1570年、織田信長は徳川家康と協力して、越前国(福井県東部)の朝倉義景を攻撃します。
朝倉家が支配する金ヶ崎城を攻め落とした織田信長でしたが、撤退を余儀なくされる事態が起こります。
このとき、浅井長政が突然織田信長を裏切り、その背後を攻撃したのです。
前に朝倉軍・後ろに浅井軍と、挟み撃ちにあった織田信長は、絶対絶命の危機におちいったのです。
このとき、信長は徳川家康を置き去りにしてまで、急いで京都へ逃亡したといいます。
木下秀吉(豊臣秀吉)・明智光秀・徳川家康は、敵の猛攻を防ぎつつ撤退戦を繰り広げました。
この戦いは、金ヶ崎の退き口と呼ばれることになるのです。
長政の裏切りに激怒した織田信長は、数ヶ月後の姉川の戦いで、浅井軍を撃破しています。
浅井長政の最期の瞬間!
1573年、浅井長政は居城・小谷城を信長に攻め落とされ、自害して亡くなります。享年29歳。
1570年の姉川の戦いでも、信長をあと一歩のところまで追いつめた長政でしたが、徳川家康の活躍によって敗北。
小谷城へ籠城して、抵抗を続けたのでした。
1572年、武田信玄が浅井長政・朝倉義景と連携して、織田信長と徳川家康を倒すために進軍を開始。
三方原の戦いで家康の軍団に圧勝するも、直後に武田信玄は病死。
1573年、頼みの綱だった武田信玄を失い、朝倉義景をも失った浅井長政は、小谷城を信長に攻められて、ついに自害。
長政は亡くなる直前に、妻・お市の方と、茶々・初・江の3人の娘を信長のもとへ送っています。
この浅井三姉妹と呼ばれる3人の娘たちが、日本の歴史を大きく動かしていくのです。
浅井長政の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】浅井長政に辞世の句ありません。しかし、以下のような歌を残しています。
「けふもまた 尋ね入りなむ 山里の 花に一夜の 宿はなくとも」
浅井長政には、辞世の句のようなものはありません。
しかし和歌が一つ残されています。
【けふもまた 尋ね入りなむ 山里の 花に一夜の 宿はなくとも】
(今日もまた、山里の花を求めて行ってみよう。たとえ一夜を過ごすような宿がないとわかっていても、行かずにはいられないんだ)
この歌を、浅井長政がいつ歌ったのかは不明です。
ちなみに、浅井長政は亡くなる2日ほど前に、片桐直貞という武将に対して、その活躍を賞賛し感謝する感状と呼ばれる手紙を残しています。
この片桐直貞の息子である片桐且元は、1615年の大坂夏の陣で亡くなった浅井長政の長女・茶々(淀殿)に、最後までつかえた武将として有名です。
浅井長政の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】浅井長政の死後、本能寺の変・賤ヶ岳の戦いという事件が起こりました。
1573年に浅井長政が亡くなった9年後の1582年、本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に討ち果たされてしまいます。
本能寺の変からわずか11日後、山崎の戦いで、明智光秀は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れます。
その翌年の1583年、秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、天下の支配者の地位を確定的にします。
このとき、実は柴田勝家は、浅井長政の妻だったお市の方と再婚していました。
お市の方は、秀吉の攻撃を受けて、柴田勝家とともに自害して亡くなります。
しかし3人の娘たちは秀吉によって保護され、その後、長女の茶々は秀吉の側室となり、次女・初は戦国武将・京極高次に嫁ぎ、三女・江は徳川秀忠に嫁ぐのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,浅井長政の『死因』は?
死因は自害
2,浅井長政が【亡くなった日時】は?
西暦1573年9月26日(旧暦・天正元年9月1日)享年29歳
3,浅井長政の【最後の様子】とは?
最後の様子は、小谷城を織田信長に攻められ、自害した
4,浅井長政の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は記録されていないが、「けふもまた 尋ね入りなむ 山里の 花に一夜の 宿はなくとも」という和歌を残している
5,浅井長政の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下がおられる
6,浅井長政の【死後に起こった出来事】とは?
死後に本能寺の変・賤ヶ岳の戦いが起こった
以上となります。
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