藤原道綱の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原道綱の死因は病死
- 西暦1020年11月2日(寛仁4年10月15日)に亡くなった、享年66歳
- 死ぬ前に、弟である藤原道長から見舞いを受けた
- 辞世の句は不明
女系子孫に、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経と、5代将軍・藤原頼嗣という人 がいる- 死後
、後冷泉天皇の誕生、 という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原道綱の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原道綱の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原道綱の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道綱の【死因】と【最後の様子】
藤原道綱の【死因】
【結論】藤原道綱の死因は、病死
藤原道綱は、病死です。
くわしい病名は不明ですが、亡くなる直前に、弟である藤原道長から見舞いを受けています。
当時は出家しないと極楽浄土へ行けないといわれていました。
そのため、死期を悟ると出家していたわけです。
道綱は、病気が良くならないと悟り、出家したのでしょう。
出家した2日後に、亡くなっています。
余談ですが、弟・道長は、その8年後に亡くなっています。
その最期は、九体の阿弥陀如来像と自分の手を糸で繋ぎ、極楽浄土へ行くことを強く願った最期だったといいます。
藤原道綱が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1020年11月2日(寛仁4年10月15日)、享年66歳
藤原道綱の【生涯年表】
藤原道綱の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
955年 | 藤原道兼の次男として誕生。母は「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母。 |
969年 | 安和2年、円融天皇の践祚に伴い童殿上に上がる |
970年 | 天禄元年、従五位下に叙爵 |
974年 | 天延2年、右馬助に任官 |
977年 | 貞元2年、正月に左衛門佐に遷る |
977年 | 貞元2年、10月に土佐権守へ左遷 |
978年 | 貞元3年、左衛門佐に戻される |
983年 | 天元6年、左近衛少将に遷任 |
986年 | 寛和2年、寛和二年内裏歌合に末弟・藤原道長と共に出詠 |
986年 | 寛和2年、6月23日に寛和の変が発生。花山天皇が出家し、 |
986年 | 寛和2年、五位蔵人に任官 |
987年 | 寛和3年、従三位に叙せられる |
990年 | 永祚2年、正三位に昇叙 |
990年 | 永祚2年、中宮権大夫を兼ねる |
991年 | 正暦2年、参議に任官 |
995年 | 長徳元年、兄・藤原道隆が薨去 |
995年 | 長徳元年、藤原道兼が薨去 |
996年 | 長徳2年、長徳の変を経て権中納言に昇進 |
996年 | 長徳2年、右近衛大将を兼ねる |
997年 | 長徳3年、大納言に任ぜられる |
1000年 | 長保2年、従二位に叙せられる |
1001年 | 長保3年、右大将を辞すが正二位に叙せられる |
1012年 | 寛弘9年、中宮大夫を兼ねる |
1018年 | 寛仁2年、皇太后宮大夫となる |
1020年 | 寛仁4年、出家 |
1020年 | 寛仁4年、出家した2日後に薨去 |
藤原道綱の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原道綱の辞世の句は、記録にありませんでした。
藤原道綱の辞世の句や言葉は、調査しましたが、わかりませんでした。
しかし、歌の才能はあったらしく、新勅撰和歌集などに、歌が選ばれています。
母親である藤原道綱母は、蜻蛉日記を記した人物で、才女として有名なので、その才能を引き継いだのでしょう。
ライバルだった藤原実資は、道綱のことを
「40代になって自分の名前しか漢字が読めないやつ」
「何も知らないやつ」
などと、自らの日記である小右記でののしっていました。
しかし和泉式部からは、歌を褒められているので、文才も、それなりにあったと思われます。
弓の名手として有名です。
藤原道綱の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原道綱の子孫には、鎌倉時代の鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経と、5代将軍・藤原頼嗣という人物がいる
藤原道綱の子孫は、中流貴族として続きましたが、男系子孫は鎌倉時代に途絶えました。
しかし女系子孫が、鎌倉幕府の4代・5代将軍となっています。
道綱の三男・藤原兼経の子孫である兼子という女性が、五摂家のひとつである九条家の九条兼実に嫁いでいるのです。
その兼子が、九条良経という人物を産んでいます。
この九条良経の孫が、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経です。
九条良経が生まれた九条家は、藤原道綱の異母弟・藤原道長の子孫でもあるので、当然ながら4代将軍・藤原頼経は、藤原道長の子孫でもあります。
藤原頼経は、源頼朝の妹の孫にあたる人だったため、鎌倉幕府の将軍に選ばれたといいます。
頼経は、1246年に、鎌倉幕府の5代執権・北条時頼によって、反乱を察知され、鎌倉から追放されています。(宮騒動)
その子で5代将軍・藤原頼嗣も、1252年に将軍職を解任されて、京都へ送り返されています。
二人とも、1256年に、赤痢という感染症で病死しています。
別系統を通じて、現代にも藤原道綱の子孫は続いています。
戦国時代末期の九条家当主・九条幸家は、浅井長政とお市の方の孫にあたる完子姫を妻とし、その子孫は現在の天皇陛下につながっています。
そのため、現在の天皇陛下にも、九条家を通じて、藤原道綱の血が引き継がれています。
そのほか、現代の子孫としては、九条良経を通じた子孫として、2021年現在、明治神宮の宮司をつとめておられる九条道成さんというお方がおられます。
九条道成さんは、かなりの有名人で、藤原氏の祖である中臣鎌足と、直接血がつながった子孫にあたるお方です。
当然ですが、九条道成さんは、藤原道長の子孫でもあります。
藤原道綱の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原道綱の死後、後冷泉天皇の誕生、という事件が起こりました。
藤原道綱が亡くなった5年後の1025年、藤原道長の娘である嬉子が、敦良親王(のちの後朱雀天皇)とのあいだに、親仁親王を産んでいます。
親仁親王は、のちの後冷泉天皇です。
後冷泉天皇は、藤原道長の息子である藤原頼通の娘を皇后としていました。
藤原頼通は、後冷泉天皇と娘のあいだに、次の天皇が産まれることを期待したのです。
自分の孫を天皇として、その後ろ盾になって政治を思うまま操ることが目的です。
しかし、後冷泉天皇と娘である藤原寛子のあいだには、皇子は生まれませんでした。
失意のうちに、藤原頼通は引退。
そして後冷泉天皇の異母弟・後三条天皇が即位します。
この後三条天皇は、藤原氏に頼ることなく、自ら政治を行いました。
その息子である白河天皇は、院政を行ったことで有名です。
親政と院政により、藤原氏の摂関政治は終わります。
それと同時に、藤原氏の栄華も終わることになるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原道綱の『死因』は?
死因は病死
2,藤原道綱が【亡くなった日時】は?
西暦1020年11月2日(寛仁4年10月15日)に亡くなった、享年66歳
3,藤原道綱の【最後の様子】とは?
最後の様子は、出家したのち、異母弟である藤原道長から見舞いを受けたという。出家の2日後に亡くなった。
4,藤原道綱の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、不明。
5,藤原道綱の【子孫】とは?
6,藤原道綱の【死後に起こった出来事】とは?
死後に
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント