紫式部の夫・藤原宣孝の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原宣孝の死因は、疫病による病死
- 西暦1001年5月20日(長保3年4月25日)に亡くなった、享年不明
- 死ぬ前に、妻・紫式部とのあいだに藤原賢子という娘を残した
- 辞世の句は不明だが、妻・紫式部が夫の死に際して「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」という歌を残した
- 現在の天皇陛下、そして待賢門院璋子という子孫がいる
- 死後、妻・紫式部が、源氏物語を執筆した
この記事では、藤原宣孝の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原宣孝の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原宣孝の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原宣孝の【死因】と【最後の様子】
藤原宣孝の【死因】
【結論】藤原宣孝の死因は、疫病による病死
紫式部の夫・藤原宣孝の死因は、疫病による病死です。
当時は、天然痘などの病気が、猛威を振るっていたといいます。
もしかすると藤原宣孝も、天然痘が原因かもしれませんが、真相は不明です。
藤原宣孝が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1001年5月20日(長保3年4月25日)、享年不明
藤原宣孝は、何年に生まれたのかが不明なので、享年も不明です。
藤原宣孝の【生涯年表】
藤原宣孝の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
966年? | 藤原為輔の子として誕生 |
984年 | 院判官代に補せられる |
990年 | 筑前守に任ぜられる |
992年 | 大宰少弐を兼ねる |
998年 | 山城守を兼ねる |
998年頃 | 紫式部と結婚 |
999年頃 | 紫式部とのあいだに藤原賢子(大弐三位)が生まれる |
1001年 | 疫病により卒去 |
藤原宣孝の【辞世の句】とその意味を解説
【結論】藤原宣孝の辞世の句は不明だが、亡くなった夫・宣孝へ紫式部が残した歌として
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
という歌があります
藤原宣孝の辞世の句は、調査しましたが、不明でした。記録にありません。
しかし、宣孝の死に対し、妻である紫式部が送った歌がありました。
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
(仮装されて煙になった夕べを目にしていると、陸奥国の塩釜の浦で舞い上がるという塩焼きの煙まで、なんだか懐かしく思えてしまいます)
これは紫式部集という和歌集に記された和歌の一つです
紫式部と藤原宣孝は、20歳も年齢の離れた夫婦でした。
二人のあいだには、大弐三位という娘がいました。
幼い娘を残して、宣孝は亡くなったのでした。
藤原宣孝の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原宣孝の子孫には、平安時代の、待賢門院璋子という人物がいる。また、現代の天皇陛下も、子孫にあたられる
藤原宣孝の子孫には、待賢門院璋子という女性がいます。
この女性が産んだ子供たちが、保元の乱という歴史上の大事件を起こすのです。
藤原宣孝には、紫式部のほかにも何人もの妻がいました。
その、紫式部以外の妻を通じて生まれた子の子孫が、待賢門院璋子なのです。
待賢門院璋子は、藤原宣孝の玄孫(孫の孫)にあたります。
璋子は、鳥羽天皇に嫁いだ女性です。
ところが璋子は、驚くことに、鳥羽天皇の祖父であり、当時の絶対権力者・白河法皇の愛人でもあったといわれています。
璋子は、鳥羽天皇の子として、のちの崇徳上皇を出産します。
しかしこの崇徳上皇が、実は鳥羽天皇の子ではないと噂されていたのです。
なんと崇徳上皇の父親は、璋子の夫・鳥羽天皇の祖父である白河法皇だというのです。
この噂は、鳥羽天皇を苦しめます。
鳥羽天皇は、我が子である崇徳上皇を、「叔父子」と呼んで忌み嫌ったのです。
叔父子とは、つまり
「実の子のようだが、祖父・白河法皇の子供なので、鳥羽天皇からすると叔父にあたる子供」
という意味です。
罪もない崇徳上皇は、白河法皇亡き後、絶対権力者となった鳥羽法皇(出家後の鳥羽天皇)に嫌われつづけ、日陰を歩かされ続けたのでした。
鳥羽法皇が亡くなる時、天皇の位に即位していたのは、崇徳上皇の弟で、鳥羽法皇と璋子のあいだに生まれた後白河天皇でした。
鳥羽法皇の死をきっかけに、後白河法皇と崇徳上皇は、権力の座を巡って争います。
保元の乱です。
後白河法皇は、平清盛やその子・平重盛、そして源義朝の協力を得て、保元の乱に勝利。
権力者としての地位を確立するのです。
敗北した崇徳上皇は、讃岐(香川県)へ流罪となり、怨霊になったといわれています。
話を戻しましょう。
藤原宣孝の玄孫である璋子が、後白河法皇を産んでいるわけです。
その後、後白河法皇の血筋は、日本の天皇家に代々受け継がれています。
そのため、現在の天皇陛下もまた、藤原宣孝の子孫ということになります。
それだけではありません。
実は、保元の乱で後白河法皇に味方した平重盛も、藤原宣孝の子孫です。
平重盛は、藤原宣孝と紫式部の娘・藤原賢子(大弐三位)の子孫です。
また、途中で養子が入っているため、血筋はつながっていませんが、現在も続く藤原北家の名家・甘露寺家は、藤原宣孝の子孫ということになっています。
甘露寺家は、甘露寺久長さんという方が、継承しておられるといいます。
藤原宣孝の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原宣孝の死後、紫式部が「源氏物語」の執筆を開始したという。
諸説あるものの、藤原宣孝の死をきっかけにして、妻・紫式部が「源氏物語」を執筆したという説があります。
その源氏物語の評判を耳にした藤原道長が、娘の彰子の女房として、紫式部をつかえさせたといいます
源氏物語を読みたいがために、一条天皇は藤原彰子のもとへ通ったといいます。
実は一条天皇には、他にも妻がいました。
藤原定子です。
定子は、藤原道長のライバルである藤原伊周の妹でした。
定子と彰子、二人のうちどちらが一条天皇の後継者を出産するのかで、伊周と道長の権力闘争の結果が判明するわけです。
結果として、源氏物語を読みたいがために彰子のもとへ通ったせいなのか、彰子が二人の男児を出産。
伊周は、長徳の変という事件で、花山法皇(花山天皇)の袖を矢で射抜くという乱暴を働いたため、没落。
定子も、その後、静かに亡くなりました。
彰子と、それを支えた紫式部の活躍のおかげで、藤原道長は権力を独占することになるのです。
宣孝の死後、源氏物語という、約1000年も読み続けられた作品が誕生したのでした。
紫式部はその後、源氏物語を完成させて、亡くなるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原宣孝の『死因』は?
死因は、疫病による病死
2,藤原宣孝が【亡くなった日時】は?
西暦1001年5月20日(長保3年4月25日)に亡くなった、享年不明
3,藤原宣孝の【最後の様子】とは?
最後の様子は、幼い娘である大弐三位(藤原賢子)を残して亡くなった。
4,藤原宣孝の【辞世の句】とは?
辞世の句または最後の言葉は不明だが、妻・紫式部が歌を残している
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
5,藤原宣孝の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下、そして後白河法皇の母・待賢門院璋子。
6,藤原宣孝の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、妻・紫式部が、源氏物語という名作を完成させた
以上となります。
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