藤原実資の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原実資の死因は、老衰または病死
- 西暦1046年2月26日(永承元年1月18日)、享年90歳
- 辞世の句または最後の言葉は、不明
- 千古という娘がいて、実資の孫を産んだが、幼くして亡くなった
- 死後、後三条天皇の荘園整理令という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原実資の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原実資の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原実資の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原実資の【死因】と【最後の様子】
藤原実資の【死因】
【結論】藤原実資の死因は、老衰または病死
藤原実資の死因は、はっきりしていません。
しかし、90歳という、現代でも長寿と言ってよい年齢まで生きていたことを考えると、死因は老衰がもっとも可能性が高いのではないでしょうか。
仮に老衰ではないにしても、事故や誰かに命を奪われたという記述も存在しないため、他には病死くらいしか可能性はないでしょう。
老衰または病死というのが、もっとも可能性が高いと思います。
藤原実資が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1046年2月26日(永承元年1月18日)、享年90歳
【藤原実資の生涯と最期】をザッと解説
年 | 出来事 |
---|---|
安和2年(969年) | 叙爵 |
天禄2年(971年) | 侍従に任じられ、右兵衛佐に任命 |
天元4年(981年) | 円融天皇のときに蔵人頭に補される |
永観元年(983年) | 左中将に転任 |
永観2年(984年) | 花山天皇の践祚(天皇即位)に伴い再び蔵人頭に任命 |
寛和2年(986年) | 花山天皇の退位に伴い蔵人頭を去る |
永延元年(987年) | 再び蔵人頭に補され、参議となり公卿に列する |
正暦元年(990年) | 九条流の藤原兼家が没し、その子・道長が権勢を握る |
長保元年(999年) | 権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねる |
寛仁元年(1017年) | 右大臣に就任 |
万寿4年(1028年) | 藤原道長・死去 |
長暦元年(1037年) | 従一位に叙される |
永承元年(1046年) | 90歳で薨去 |
藤原実資の【辞世の句】または【最後の様子】とその意味を解説
【結論】藤原実資の辞世の句、または最後の言葉は記録にありません
最後は出家することもなく、現実の社会で活躍することを選んだといいます。
賢人右府つまり賢い右大臣さまと呼ばれた藤原実資が亡くなると、その死を悲しんだ朝廷の人々が、実資の屋敷を次々おとずれて涙したといいます。
当時は、出家しないと極楽へ行くことができないと考えられていました。
藤原道長は、死の間際に極楽へ行きたい一心で、北に枕をおいて西を向いて横たわるというお釈迦さまと同じ体勢で亡くなったといいます。
しかもその道長は手を、阿弥陀如来像の右手と糸で結び合わせてまで、極楽へ行きたがったのです。
→→→→→【藤原道長の最後の様子と死因】についてくわしくはこちら
ところが実資は出家することなく、最後まで現実の社会で活躍することを望んで、つまり仕事をして亡くなったのでした。
賢人右府と呼ばれて慕われた実資の最後は、当時の貴族社会ではめずらしい形だったのです。
藤原実資の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原実資の子孫は、実資の娘・千古の代で途絶えている
藤原実資に子孫はいません。
実資は子どもが少なく、娘の千古と、庶子の良円という僧侶しか、子供がいませんでした。
良円は、父・実資より先に亡くなったといいます。
千古がいつ亡くなったのかは不明ですが、彼女が藤原道長の孫・藤原兼頼に嫁いで産んだ子供は、幼くして亡くなったといいます。
実資の血を引く子孫は、千古が産んだ子が幼くして亡くなったことで、事実上断絶しています。
また、実資には何人もの養子がいて、その養子のひとりである藤原資平が、実資の家である「藤原北家小野宮流」を継承しています。
その後も小野宮流は続いたものの、実資の資産が、娘の千古の嫁ぎ先である藤原道長の家に相続されたため、小野宮流は没落していったといいます。
ただ、藤原実資の養子の子孫はその後も続き、保元の乱で有名な崇徳上皇の息子へつながり、他の系統からは源頼朝の御家人や江戸幕府の幕臣へとつながっています。
藤原実資の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原実資の死後、後三条天皇の親政という事件が起こりました。
藤原実資が亡くなった後、藤原氏と縁が薄い「後三条天皇」が即位し、藤原氏の栄華は終わりを迎えます。
藤原氏は、天皇へ娘を嫁がせて、生まれた男の子を天皇に即位させ、その外祖父として政治を思うがままに操ることで、権力を握っていました。
つまり、娘が天皇の後継者を産むという、偶然に頼った方法で権力を握っていたので、その栄華は、長く続かない不安定なものだったのです。
後三条天皇は、荘園整理令という、荘園すなわち私有地を没収する命令を発令します。
これにより、藤原氏の経済基盤である荘園が大量に処分されてしまい、経済的な大打撃を受けたのでした。
後三条天皇はわずか40歳で病気により崩御するのですが、その息子・白河天皇(のちに白河法皇)が、院政を開始します。
この院政により、白河法皇は権力を独占します。
サイコロ・鴨川・山法師。これ以外すべて私の思うがまま
そんな言葉を残すほどの権力を手に入れた白河法皇でしたが、その後、白河法皇の隠し子ではないかと噂された平清盛が、権力を独占することになります。
平家にあらずんば人にあらず
そう言われるほどの栄華を極めた平清盛の息子・平重盛は、紫式部の子孫でした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原実資の『死因』は?
死因は老衰・病死
2,藤原実資が【亡くなった日時】は?
西暦1046年2月26日(永承元年1月18日)、享年90歳
3,藤原実資の【最後の様子】とは?
最後の様子は、当時は出家しないと極楽往生できないといわれていたので、死の間際に出家するのが当たり前だったが、実資は最後まで仕事をしており、出家しなかったという
4,藤原実資の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、記録にない
5,藤原実資の【子孫】とは?
子孫は、娘の千古がいたが、子孫が続かず、養子が藤原実資の家である小野宮流を継承した
6,藤原実資の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後三条天皇の荘園整理令という事件が起こった
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント