藤原道兼の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原道兼の死因は病死
- 995年6月8日(長徳元年5月8日)に亡くなった
- 死ぬ前に、兄・藤原道隆が病死した
- 辞世の句を不明
- 宇都宮成綱という子孫がいる
- 死後、長徳の変という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原道兼の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原道兼の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原道兼の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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藤原道兼の【死因】と【最後の様子】
藤原道兼の【死因】
【結論】藤原道兼の死因は、病死
藤原道長の次兄である藤原道兼は、病死したといわれています。
くわしい病名は不明です。
ただ、おそらくですが疫病つまり感染症が原因で病死したのではないでしょうか。
兄・藤原道隆は、糖尿病の悪化が原因で亡くなったといいます。
藤原道隆は、疫病が原因で亡くなったのではないかといわれていました。
しかし、現在ではたまたま疫病が流行した時期と重なっただけで、直接的な死因は糖尿病であると考えられているようです。
つまりこの時期、疫病が流行していたということです。
流行していた疫病が原因で、藤原道兼は亡くなったのではないでしょうか。
突然の死だったという道兼の死。
これは何の根拠もない、筆者の勝手な妄想でしかありませんが、藤原道兼は誰かに毒殺でもされたのではないしょうか?
道兼は意地悪な人だったといいますので、恨んでいた人は山ほどいそうです。
道兼が亡くなって一番得をしたのは、兄の死をきっかけに栄華を極めた弟の藤原道長ですが、真相は不明です。
余談ですが、藤原道長は紫式部と愛人関係にあった可能性が指摘されています。
もしも道兼が、紫式部の恨みを買うようなマネをしていたら、道長は激怒したかもしれません。
藤原道兼が【亡くなった日】と【享年】
【結論】995年6月8日(長徳元年5月8日)享年35歳
藤原道兼の【生涯年表】
藤原道兼の生涯年表です。
西暦・年号 | 出来事 |
---|---|
永観2年(984年) | 花山天皇即位。藤原道兼は蔵人左少弁に就任。 |
寛和2年(986年)6月23日 | 道兼は、花山天皇を元慶寺まで連れてきて出家させる。 |
懐仁親王即位(一条天皇) | 外祖父の藤原兼家は摂政に任じられる。 |
永延元年(987年) | 従二位に昇進。 |
永祚2年(989年) | 正二位・権大納言に累進。 |
長徳元年(995年) | 兄・藤原道隆の政権下で内大臣、同5年(994年)右大臣に就任。 |
長徳元年(995年) | 兄・道隆が病に伏す。 |
長徳元年(995年)4月27日 | 道兼が関白宣下を受ける。 |
長徳元年(995年)5月8日 | 道兼が病死。享年35。追贈して正一位太政大臣とされる。 |
藤原道兼の【辞世の句】とその【人柄と容貌】とは?
【結論】藤原道兼の辞世の句、または残した言葉はありません
辞世の句や、残した言葉などは、不明です。
記録には残されていません。
藤原道兼は、非常に顔色が悪くて、要望も醜く、とても毛深かったといわれています。
冷酷な性格で、人から怖がられ、意地悪だったともいわれています。
兄である藤原道隆を小馬鹿にするような、年長者であるにもかかわらず、まるで諭すような態度をとっていたといいます。
道兼といえば、父・兼家の指示により、花山天皇をだまして天皇の位から引きずりおろした張本人です。(寛和の変)
あろうことか天皇をだまして、その位から引きずりおろしたというずる賢い点も、道兼の評判が悪い理由の一つなのかもしれません。
花山天皇は、わずか19歳で天皇から引きずりおろされ、さらには後述する長徳の変という事件に巻き込まれ、崩御します。
ただ、一方ではとても男らしい人だったとも言われているようです。
とても野心的な人物で、兄・藤原道隆が父・藤原兼家のあとを継いで関白になると、不満をもらしたといいます。
父に功があったのは自分なので、当然自分が関白になるべきだ、と考えていたようです。
父の死に際して、不満を爆発させた道兼は、宴会を開いて憂さ晴らししていたといいます。
藤原道兼の子孫の現在
【結論】藤原道兼の子孫には、鎌倉時代の宇都宮貞綱、戦国時代の宇都宮成綱という方がいる
北関東を支配していた宇都宮氏は、藤原道兼の子孫だといわれています。
子孫には、16歳で6万の大軍団を率いて、1281年のモンゴル軍襲来【弘安の役】を戦った宇都宮貞綱がいます。
戦国時代に活躍した宇都宮成綱は、【奇蹟の武人】とか【宇都宮氏の中興の祖】と呼ばれた名将です。
宇都宮成綱は、蘆名氏・長沼氏・佐竹氏との激闘を制して、北関東の覇者となった人物です。
さすがは勇猛で有名だった藤原道兼の子孫です。
その後も宇都宮氏は子孫をつなげ、33代目・宇都宮政綱は、大正時代を生きたお方です。
栃木県益子町の尾羽寺には、宇都宮家代々の墓があります。
初代・宇都宮宋円から、33代・宇都宮政綱までが眠っています。
宇都宮氏は現代も続いておられます。
また、これは余談ですが、道兼の次男・藤原兼隆と、紫式部の娘である大弐三位が結婚しています。(兼隆ではなく、藤原公信という人物と結婚していたという説もある)
そして大弐三位は女の子をひとり産んでいます。
その紫式部の孫娘にあたる女性が、源良房という人物と結婚。
そして源知房という子を産んでいるのです。(源知房は、紫式部のひ孫にあたる)
藤原道兼の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原道兼の死後、【長徳の変】という事件が起こりました。
藤原道兼の死後、藤原道長がライバルである藤原伊周・隆家を没落させた長徳の変が起こります。
996年、長徳の変が起こりましたが、その経緯は以下の通りです。
藤原道長の甥であり、最大のライバルだった藤原伊周が、元太政大臣・藤原為光の娘【三の君】と恋人関係にありました。
その三の君と一緒に暮らしていた妹【四の君】の家へ、花山法皇が通い出したのです。(法皇とは、出家した上皇のこと。上皇とは、かつて天皇だった人のこと)
三の君の浮気を疑った藤原伊周は、弟の藤原隆家に相談。
藤原隆家は、花山法皇の一行を襲撃し、法皇の衣の袖を矢で射抜くという暴挙に出たのです。
さらには、花山法皇の従者二人の首を持ち去ったといいます。(長徳の変)
これを口実に、藤原道長はライバルだった藤原伊周・隆家兄弟をそろって左遷。
しかもその姉弟であった一条天皇の中宮・定子も落飾(出家すること)する原因の一つともなりました。
これにより、藤原道長の最大のライバルだった中関白家は没落し、道長の栄華が確立することとなるのです。
「この世は全て、私のための世だ」
藤原道長は、そう豪語するほどの栄華を極めることとなるのです。
この栄華は、後三条天皇の親政と、その子である白河法皇の院政が始まるまで続くことになります。
また、先ほども申しましたが、道兼の死後に次男の藤原兼孝と、紫式部の娘である大弐三位が結婚しています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原道兼の『死因』は?
死因は、病死。おそらく疫病などの感染症。
2,藤原道兼が【亡くなった日時】は?
995年6月8日(長徳元年5月8日)享年35歳
3,藤原道兼の【最後の様子】とは?
念願だった関白に就任した直後、わずか7日で亡くなった。
4,藤原道兼の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は残されていない
5,藤原道兼の【子孫】とは?
子孫は、北関東を支配した宇都宮氏。奇蹟の武人と呼ばれた宇都宮成綱など。
6,藤原道兼の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、長徳の変という事件が起こった。
道兼の次男・兼孝が、紫式部の娘・大弐三位と結婚している。
以上となります。
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