松平定信の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 松平定信の死因は、風邪
- 西暦1829年6月14日(文政12年5月13日)、享年70歳
- 死ぬ二時間ほど前に、うめき声をあげ始め、医師が診察すると脈が変わり亡くなった
- 「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」という辞世の句または言葉を残した
- 松平定純さんという子孫がいる他、真田家と土岐家に子孫が続いている
- 死後、黒船来航と明治維新、という歴史的事件が起こった
この記事では、松平定信の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
松平定信の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、松平定信の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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松平定信の【死因】と【最後の様子】
松平定信の【死因】
【結論】松平定信の死因は、風邪をこじらせたこと
松平定信は、亡くなる4ヶ月ほど前に風邪をひき、それを悪化させて亡くなったといいます。
風邪をひいて高熱を発し、一時的に回復するかに見えたものの、悪化して亡くなったのでした。
松平定信が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1829年6月14日(文政12年5月13日)、享年70歳
松平定信の【生涯年表】
年 | 年号 | 出来事 |
---|---|---|
1759年 | 宝暦8年 | 田安徳川家の七男として江戸で生まれる。8代将軍・吉宗の孫にあたる。 |
1775年 | 安永4年 | 陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となり、白河藩の次期藩主となる |
1783年 | 天明3年 | 白河藩第3代藩主として家督を相続する |
1786年 | 天明6年 | 10代将軍徳川家治・死去。田沼意次が失脚。 |
1787年 | 天明7年 | 徳川家斉が11代将軍に就任。老中首座に就任し、寛政の改革を始める |
1793年 | 寛政5年 | 家斉や大奥と対立し、老中を解任。寛政の改革終了 |
1812年 | 文化9年 | 息子に家督をゆずって隠居 |
1829年 | 文政12年 | 70歳で死去する |
松平定信の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】松平定信の辞世の句、または残した言葉は
「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」
です
この歌の意味は
「今更恨んだり、嬉しがったりすることはない。楽しいことも見尽くした身であるから」
田沼意次の失脚後、寛政の改革を断行し、理想の政治を目指した松平定信。

田沼意次
引用元Wikipediaより
ところが、その改革は、望んだほどの結果を出すこともなかったようです。
特に市民からは恨まれたといいます。
曲亭馬琴や歌川広重そして葛飾北斎を見出したことで有名な蔦屋重三郎は、松平定信の寛政の改革によって、出版業などの商売の規模を縮小するまでに追い込まれています。
なんと亡くなる直前に、恨まれていた出版業界から、松平家の悪い評判を流布する一枚刷りが多数出回ったのだとか。

結局、周囲の理解を得られず、将軍・徳川家斉からは恨まれ、失脚することとなった松平定信。
亡くなるにあたり、楽しいことも嬉しいことも、恨みに思うことも、何もかも見尽くし、全てを受け入れる心境となったのでしょう。
ライバルの田沼意次は、そんな松平定信とは逆に、失意のうちに亡くなったといいます。

松平定信の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】松平定信の子孫には、現在の松平定純さんという人物がいる
松平定信の直系子孫は、男系では4代後の松平定孝で途絶えてしまいました。
しかし、女系では現在まで血統が続いており
- 7代子孫の松平定純さん
- 定純さんのお子さんの華子さん
- 定純さんの叔父・定康さん
このお三方がご存命だということです。
また、松平定信には、別系統での子孫もいました。
松平定信の庶子である幸貫は真田家へ、孫である頼之は土岐家に養子に行っています。
そして、それぞれ男系子孫を残しました。
つまり、松平定信の子孫は
- 真田家
- 土岐家
でも、現在も続いているということです。
真田家:7代子孫の真田幸邦氏(1984年没)・幸和氏(1990年没)の兄弟までは確認されています。
幸邦氏は男子が無く婿養子の幸徳氏が後を継いでいます。
幸和氏については子息の有無などが不明なため、男系子孫が残っている可能性があります。
土岐家:7代子孫の土岐實光氏(2011年没)までは男系が続いていましたが、現在は途絶えています。
娘である土岐小百合氏はコミュニケーション・アーティストとして活躍されています。
さらに、土岐小百合さんのご子息と思われる土岐安麗さんという方が、實光さんの養子となって現当主をつとめておられます。
松平定信の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】松平定信の死後、アメリカのペリーひきいる黒船が浦賀に来航する、という事件が起こりました。
松平定信の死から24年後の1853年、アメリカのペリーがひきいる黒船艦隊が、浦賀に来航し、日本に開国を要求します。

ペリー
引用元Wikipediaより
松平定信が生きていた時代から、外国からの脅威は日本に迫っていました。
特にロシアは蝦夷地つまり北海道へ接近していたのです。
ロシアに対抗するため、蝦夷地開発をするべきという声がありました。
ところが松平定信は、蝦夷地開発には、否定的だったといわれています。
そうしているうちに、黒船が日本に来航。
この頃の幕府は、財政難などにより、以前のような力を完全に失っていたのです。
西欧列強の圧倒的な力に屈した日本は、ついに開国。
1868年には、薩摩と長州を中心に、明治維新が起こり、江戸幕府は滅亡するのでした。
ちなみに、明治維新に活躍した英雄たち
- 吉田松陰(高杉晋作・伊藤博文たちの師)
- 勝海舟(坂本龍馬の師)
- 坂本龍馬(薩長同盟の仲介者)
- 河井継之助(長岡藩で新政府軍に善戦)
- 橋本左内(西郷隆盛の盟友)
- 山本覚馬(新島襄の義兄。新島八重の兄)
彼らがそろって入門していたのが、江戸の五月塾です。
この塾で教えていたのは、天才兵学者・佐久間象山。

佐久間象山
引用元Wikipediaより
佐久間象山は、松平定信の庶子・松平幸貫が藩主を務めた真田家松代藩の藩士なのです。
佐久間象山は、徳川慶喜に対して、開国と公武合体を主張したといいます。
つまり、定信の子が支配した松代藩から、幕末の開国そして公武合体などの知恵が広まっていったのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,松平定信の【死因】は?
死因は、風邪
2,松平定信が【亡くなった日時】は?
西暦1829年6月14日(文政12年5月13日)、享年70歳
3,松平定信の【最後の様子】とは?
最後の様子は、一時回復の兆候があったものの、うめき声をあげた2時間後に脈が変わり、亡くなった
4,松平定信の【最期の言葉】とは?
辞世の句は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」
5,松平定信の【子孫】とは?
子孫は、松平定純さんという子孫がいる他、真田家と土岐家に子孫が続いている
6,松平定信の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、黒船来航と明治維新、という事件が起こった
以上となります。
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