10代将軍・徳川家治の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 徳川家治の死因は、脚気による心不全
- 西暦1786年9月17日(天明6年8月25日)、享年50歳(満年齢49歳)
- 死ぬ前に、田沼意次がすすめた医師の薬を飲んだという
- 有名な言葉として「「これは先々代様も食べられたものか?」と、食事の際によく言っていた
- 血のつながった子孫はいない
- 死後、田沼意次の失脚、という歴史的事件が起こった
この記事では、徳川家治の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
徳川家治の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、徳川家治の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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徳川家治の【死因】と【最後の様子】
徳川家治の【死因】
【結論】徳川家治の死因は、脚気による心不全
徳川家治は【脚気衝心】つまり【脚気が原因の心不全】で亡くなったと推測されています。
脚気とは、ビタミン不足が原因で起こる病気のことです。
足がしびれる症状が出るため、脚気と呼ばれるのです。
この病気になると、心臓の機能が極端に低下します。
そして心臓の機能不全、つまり心不全が起こるといわれています。
実は徳川家治は、亡くなる直前に、田沼意次がすすめた医師が出した薬を飲んでいます。
その直後に危篤となったため、田沼意次が毒殺したのではないかと噂されたようです。
しかし、これは噂に過ぎません。
嫌われ者だった田沼意次をおとしめようとする人たちの噂でしかないでしょう。
徳川家治が亡くなったことで後ろ盾を失った田沼意次は、直後に失脚しています。
田沼意次が、徳川家治を毒殺する理由が無いと考えられます。
徳川家治が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1786年9月17日(天明6年8月25日)、享年50歳(満年齢49歳)
徳川家治の【生涯年表】
年 | 元号 | 出来事 |
---|---|---|
1737年 | 元文2年 | 9代将軍・徳川家重の長男として江戸城西ノ丸にて誕生。 |
1741年 | 寛保元年 | 元服して権大納言に叙任。 |
1754年 | 宝暦4年 | 直仁親王の娘・五十宮(倫子)と結婚。 |
1760年 | 宝暦10年 | 父・家重の隠居により第10代将軍に就任。 |
1767年 | 明和4年 | 田沼意次を側用人に任命。 |
1772年 | 明和9年 | 田沼意次を老中に昇進させ、幕政を任せる。 |
1779年 | 安永8年 | 長男・徳川家基が死去。 |
1781年 | 天明元年 | 一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(11代将軍・徳川家斉)を養子とする。 |
1786年 | 天明6年 | 死去。享年50。 |
徳川家治が【残した言葉】とその意味を解説
【結論】徳川家治の残した言葉として有名なものに
「これは先々代様も食べられたものか?」
というものがあります
徳川家治は、食事でめずらしいものが出ると常に
「これは先々代様も食べられたものか?」
と、周囲に確認したといいます。
徳川家治の先々代とは、祖父にあたる8代将軍・徳川吉宗のことです。
徳川吉宗は、名君として幕府では知られており、家治をとてもかわいがっていたのです。
そのため家治も、常に祖父のような名君であろうとしたのでした。
常に質素に倹約していたという徳川吉宗を見習って、家治も、吉宗以上の質素倹約に努めたといいます。
徳川家治の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】徳川家治には血のつながった直系子孫はいない。しかし徳川宗家は徳川家広さんが継承し、今も続いている
徳川家治の子供達は、全員が若くして亡くなったため、子孫はいません。
家治は愛妻家で、妻の五十宮以外にはまったく興味を示さなかったのです。
ところが、五十宮が産んだ二人の姫は、ともに幼くして亡くなりました。
老中・田沼意次が側室を持つようすすめたことがありました。
家治は、田沼意次も側室を持つなら、自分も側室を持つと言ったといいます。
その後、側室とのあいだに長男「徳川家基」と、次男「貞次郎」が生まれました。
それ以後、側室のもとへ家治が通うことは、二度となかったといいます。
しかし、生まれた二人の息子達は、ともに若くして亡くなっています。
そこで、家治は御三卿の一つである一橋徳川家から、家斉を養子としてむかえます。(家斉は、家治のいとこである一橋治斉の息子)
その家斉から養子をはさんで、15代将軍・徳川慶喜まで続きます。
その後徳川宗家は、会津藩主・松平容保の子孫から養子をもらい、現在の19代当主・徳川家広さんまで続いています。
徳川家治には子供がいないため、血のつながった子孫はいないのです。
徳川家治の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】徳川家治の死後、田沼意次の失脚、という事件が起こりました。
徳川家治の死後、わずか2ヶ月後、老中・田沼意次が失脚しています。
家治を後ろ盾にして田沼意次がすすめた、賄賂政治とも揶揄された重商主義政策は、こうして終わりをむかえることになったのです。
田沼意次は、領地5万7千石を1万石に減らされています。
そして家治の死から2年後の1788年、失意のうちに亡くなるのでした。
その後、幕府の政治を支配したのは、老中・松平定信でした。
徳川家治と同じく、松平定信も、徳川吉宗の孫にあたる人物です。
松平定信は寛政の改革と呼ばれる、厳しい質素倹約政策によって、市民からも恨まれたといいます。
この寛政の改革によって、曲亭馬琴や歌川広重らを見いだした蔦屋重三郎も、商売を縮小させられたといいます。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,徳川家治の【死因】は?
死因は、脚気による心不全
2,徳川家治が【亡くなった日時】は?
西暦1786年9月17日(天明6年8月25日)、享年50歳(満年齢49歳)
3,徳川家治の【最後の様子】とは?
最後の様子は、田沼意次がすすめた医師の薬を飲んだあとに亡くなったという
4,徳川家治の残した【有名な言葉】とは?
「これは先々代様も食べられたものか?」と、食事の際によく言っていたという
5,徳川家治の【子孫】とは?
血のつながった子孫はいない
6,徳川家治の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、田沼意次の失脚、という事件が起こった
以上となります。
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