小早川秀秋の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 小早川秀秋の死因は肝硬変と多臓器不全
- 西暦1602年12月1日(慶長7年10月18日)享年21歳
- 死ぬ前に、関ヶ原の戦いで東軍に味方し、東軍勝利に貢献した
- 辞世の句は残されていない
- 小早川隆治さんという子孫がいる
- 死後、【江戸幕府誕生】と【大坂の陣】という歴史的事件が起こった
この記事では、小早川秀秋の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
小早川秀秋の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、小早川秀秋の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
小早川秀秋の【死因】と【最後の様子】
小早川秀秋の【死因】
【結論】小早川秀秋の死因は、病死!肝硬変による多臓器不全
小早川秀秋は、相当な量を飲酒をしていたといわれています。
これが原因で、肝硬変つまり肝臓が固まる病気を起こしたと考えられます。
肝硬変から多臓器不全を起こして、若くして急死してしまったのです。
大谷吉継の祟りが原因で亡くなったのか?
結論【大谷吉継に祟られて亡くなったという伝説があるが、現実的ではない】
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで味方をするはずだった西軍の大谷吉継を攻め、自害に追い込んでいます。
自害した大谷吉継は、死の間際に以下のような呪いの言葉を吐いたといわれています。
「三年のうちに祟りを成してくれる」
つまり三年以内に祟りで地獄へ連れて行ってやる、という意味です。
実際に、関ヶ原の戦いの2年後に小早川秀秋は亡くなります。
しかし呪いで亡くなったというのは、非現実的なので、史実ではないと考えられます。
小早川秀秋が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1602年12月1日(慶長7年10月18日)、享年21歳
小早川秀秋の子孫の現在
【結論】小早川秀秋の子孫には、現代の小早川隆治さんがいる
小早川秀秋には子供がいなかったため、直系の子孫はおられません。
しかし、明治12年になって、長州藩毛利家から養子を出すことで、小早川家が再興されています。
現在の小早川家当主が、小早川隆治さんです。
俳優の岡田准一さんが主演をつとめた映画【関ヶ原】の上映イベントに、小早川隆治さんが登場していました。
その場で小早川隆治さんは、石田三成の子孫である石田秀雄さんと対面しておられます。
小早川さんと石田さんは、400年のときを超えて和解したといわれています。
しかし、そもそも石田さんは400年も前のことを恨みになど思っていなかった様子です。
また小早川さんも、先祖にあたる小早川秀秋は最初から徳川家康の見方で、裏切り者であるとは思っていないようでした。
歴史学者・磯田道史さんも、【小早川秀秋は裏切り者ではない】と言っていました。
秀秋は最初から東軍であったというのが、近年の常識なのでしょう。
【小早川秀秋の生涯と最期】をザッと解説
小早川秀秋の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち
1582年、小早川秀秋は豊臣秀吉の妻である北政所(通称・おね)の兄・木下家定の五男として誕生します。
つまり豊臣秀吉の義理の甥にあたるのです。
当初の名前は木下秀俊といいました。
実の子がいなかった秀吉は、各方面から養子をもらっていましたが、特に賢かった秀秋をかわいがったといいます。
1591年、秀吉には実の子である豊臣鶴松が病死。
直後に秀吉は、甥である豊臣秀次を後継者に指名していますが、秀秋はこの豊臣秀次に次ぐ地位にいたといわれています。
1593年、秀吉と淀殿の間に、豊臣秀頼が誕生。
秀秋はその後、秀吉の後継者である秀頼の後見人のような立場を期待されたといわれています。
1594年、五大老のひとり毛利輝元の毛利家の分家・小早川家に養子として出され、小早川秀秋と名乗っています。
この頃から、おそらく小早川秀秋は自分の将来を悲観し、酒に溺れ始めたのだと考えられます。
1595年、豊臣秀次が秀吉によって無理やり自害に追い込まれ、秀頼が後継者に指名されています。
朝鮮出兵から関ヶ原の戦い
1597年、秀秋は朝鮮出兵(慶長の役)に参戦し、朝鮮半島へ渡海。
秀秋は敵軍に突撃し、自ら戦ったといわれています。
この直後、帰国した秀秋は、博多から越前へ領地を削減されています。
領地削減の原因は不明ですが、このあと徳川家康によって領地が回復されているので、秀秋は家康に恩を感じていたといわれています。
1598年、豊臣秀吉が病死。
1600年、石田三成と家康のあいだで関ヶ原の戦いが勃発。
この戦いで、小早川秀秋は伏見城攻撃などで、当初は西軍に味方していたものの、関ヶ原の戦いでは東軍に味方しています。
これは当初、秀秋が周囲を西軍に囲まれていたため、家康の味方をするわけにもいかず、しかたなく西軍に味方して伏見城を攻めたといわれています。
関ヶ原の戦いが終わった後、家康からその功績を認められ、岡山55万石をもらっています。
小早川秀秋の最期
京都から戻ったあとに鷹狩りを楽しんでいた秀秋は、突然体調を崩し、3日後に亡くなったといわれています。
1602年12月1日、秀秋は21歳という若さで亡くなってしまったのでした。
アルコールを大量に摂取したことによる、内臓疾患が原因であるというのが、近年の説です。
小早川秀秋には子供がいなかったため、小早川家は領地を没収されて断絶。
明治になって、やっと小早川家は再興されています。
小早川秀秋の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】小早川秀秋は、辞世の句や最後の言葉などを残していない
時世の句や最後の言葉を残していない小早川秀秋ですが、その心根をあらわすエピソードがあります。
小早川秀秋は、若い頃とても優しい性格で、貧しいものたちに対して寄付をしていたのだとか。
そんな心優しい人物でしたが、元服つまり成人して酒の味を覚えてからは、酒に溺れる日々を送ったようです。
この酒癖の悪さには、叔母である北政所(秀吉の妻)も、心を痛めたようです。
小早川秀秋の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】小早川秀秋の死後、【江戸幕府誕生】と【大坂の陣】という事件が起こりました。
小早川秀秋が亡くなった翌年の1603年、徳川家康が征夷大将軍に就任しています。
これにより、家康は江戸幕府という武家政権を誕生させています。
1614年、徳川家康と豊臣秀頼のあいだで、大坂冬の陣が勃発します。
この戦いは、真田信繁(真田幸村)たちの活躍もあって、和睦が成立。
ところが翌年の1615年、再び大坂夏の陣が勃発。
この戦いで、豊臣秀頼と淀殿が亡くなり、豊臣家は滅亡。
1616年、徳川家康が病死しています。
こうして戦乱の世は終わったのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,小早川秀秋の『死因』は?
死因は肝硬変と多臓器不全
2,【亡くなった日時】は?
西暦1602年12月1日(慶長7年10月18日)享年21歳
3,【最後の様子】とは?
鷹狩りの途中で倒れ、そのまま亡くなったという
4,【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は残されていない
5,【子孫】とは?
子孫は小早川隆治さん
6,【死後に起こった出来事】とは?
死後に【江戸幕府の誕生】と【大坂の陣】という事件が起こった
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント