蔦屋重三郎の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 蔦屋重三郎の死因は、脚気
- 西暦1797年5月31日(寛政9年5月6日)に亡くなった、享年48歳
- 死ぬ前に、老中・松平定信の寛政の改革によって、商売の規模を縮小した
- 最後の言葉は「今日の昼頃には死ぬよ」「拍子木はまだ鳴らねぇのか?」
- 子孫は不明だが、「TSUTAYA」と蔦屋重三郎に直接の関係はない。経営に子孫も無関係。
- 死後、開国と明治維新により、蔦屋重三郎が見出した才能が世界に飛び出し、あらゆる影響を与えた
この記事では、蔦屋重三郎の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
歌川広重・曲亭馬琴・十返舎一九・葛飾北斎・東洲斎写楽などを世に送り出した蔦屋重三郎。
蔦屋重三郎の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、蔦屋重三郎の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
蔦屋重三郎の【死因】と【最後の様子】
蔦屋重三郎の【死因】
【結論】蔦屋重三郎の死因は、脚気
脚気とは、とは、ビタミンが不足している場合に起こる疾患のことです。
心不全や末梢神障害が起こります。
原因としては、白米中心の栄養が偏った食生活やアルコール依存など。
蔦屋重三郎が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1797年5月31日(寛政9年5月6日)、享年48歳
蔦屋重三郎の【生涯年表】
蔦屋重三郎の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
1750年 | 江戸吉原で生まれる |
1773年 | 吉原大門の前に書店を開く |
1774年 | 吉原細見の販売・出版を始める |
1777年 | 書肆として独立 |
1783年 | 日本橋通油町に進出 |
1783年以降 | 朋誠堂喜三二、山東京伝、恋川春町らと親交を深め、戯作や狂歌本を刊行 |
1791年 | 山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、身上半減の処分を受ける |
1794年 | 東洲斎写楽の役者絵を出版(全然売れなかったらしい) |
1797年 | 48歳で没 |
蔦屋重三郎の【最後の言葉】を解説
【結論】蔦屋重三郎の最後の言葉は
「私は今日の昼時には死ぬよ」
「もう幕が下りて、拍子木が鳴ってもいいのに、ずいぶん遅いな」
蔦屋重三郎が残した最後の言葉は
「私は今日の昼時には死ぬよ」
というものだったといいます。
ところがその日の夕方ごろになっても、蔦重は亡くならず
「もう幕が下りて、拍子木が鳴ってもいいのに、ずいぶん遅いな」
と、自分の最期についてまで、面白おかしく表現したのでした。
または
「拍子木はまだ鳴らねぇのか?」
という言葉が最期の言葉だったともいわれています。
その直後、蔦屋重三郎は、静かに亡くなります。
享年48歳。
東京こと江戸のエンターテイメントの元祖となった蔦屋重三郎は、最後の言葉まで、楽しげに、面白おかしく飾ってみせたのでした。
蔦屋重三郎の【子孫】と、現在の「TSUTAYA」の関係とは?
【結論】蔦屋重三郎の子孫が「TSUTAYA」を経営しているわけではないし、TSUTAYAと蔦屋重三郎の子孫は無関係。
レンタルや書籍販売を行なっている「TSUTAYA」と、蔦屋重三郎の子孫とは、何の関係もありません。
ただ、「TSUTAYA」の創業者である増田宗昭さんのおじいさんが営んでいた置屋(芸者さんを抱える家のこと)の屋号が「蔦屋」だったことが理由で、「TSUTAYA」と名付けたのだとか。
もう一つの理由があるといわれています。
「蔦屋重三郎にあやかりたい」
という噂もあるようですが、これは増田さん本人が、
「置屋に由来するというよりイメージが良い。」
という理由で、後付けで「蔦屋重三郎にあやかる」というものを付け加えたのだとか。
TSUTAYAの創業者が、蔦屋重三郎の子孫などということは、まったくないとのことです。
蔦屋重三郎には、妻はいたものの、子孫については行方がわかりませんでした。
わかり次第こちらに追記いたします。
蔦屋重三郎の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】蔦屋重三郎の死後、西欧列強の接近、という事件が起こりました。
蔦屋重三郎が亡くなった頃、日本に対する西欧列強からの圧力が強まっていました。
1792年、ロシアの特使が蝦夷地(北海道)根室へ入港して通商を求めてくるなどの事件が起こっているのです。
1800年、伊能忠敬が蝦夷地の測量を開始。
その後、日本は、1853年にペリーが浦賀に来航。
1868年、明治維新が起こって江戸幕府が滅亡。
日本は一気に近代化を進めていくことになります。
その後、蔦屋重三郎が見出した才能は、海外で多数の偉人に影響を与えていきます。
1886〜1890年に活躍したオランダの印象派画家である「フィンセント・ファン・ゴッホ」は、日本の文化に傾倒していきます。

「おいらん」ゴッホ美術館
引用元Wikipediaより
そんなゴッホに影響を与えたのは、蔦屋重三郎が錦絵を出版した歌川広重の作品だといわれています。
また、ゴッホは日本版画を買い漁っています。
ゴッホは日本を夢見て、フランスのアルルという地を「日本のように美しい」と言って気に入り、そこに住み着いたといいます。(ちなみにゴッホは日本へ一度も来たことはなく、日本を南国と勘違いしていたらしい。)

ゴッホ
引用元Wikipediaより
タレントで評論家でもある山田五郎さんの推理によると、印象派の画家であるクロード・モネは、妻のカミーユがいるにもかかわらず、デパート経営者の妻と不倫して子供を儲けてしまい、その直後に亡くなった妻・カミーユへの贖罪から、仏教に縁の深い「蓮の花」を、何枚も描き続けたとのことです。

「睡蓮」クロード・モネ
引用元「Wikipedia」より
ということはモネの蓮の絵も、日本からの文化や宗教からの影響が関係していると考えられます。
小説というジャンルでも、蔦重の影響が今に残されています。
中国の有名小説「水滸伝」から影響を受けたという曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、現在でも日本人に愛読されています。
あの「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一も、幼い頃は「里見八犬伝」を夢中になって読んでいたといいます。
「里見八犬伝」に挿絵を入れていた画狂・葛飾北斎の絵は、シーボルトによってヨーロッパへ渡り、印象派画家へ影響を与えます。

葛飾北斎
引用元Wikipediaより
- エドゥアール・マネ
- クロード・モネ
- ルノワール
- ポール・セザンヌ
- エドガー・ドガ
- フィンセント・ファン・ゴッホ
- ジェームズ・マクニール・ホイッスラー
- ポール・ゴーギャン
などなど、高名な画家たちは、北斎の絵に影響を受けたといいます。
また、「月の光」などの名曲で有名な音楽家「ドビュッシー」などにも影響を与えたといわれています。
謎の絵師・東洲斎写楽(その正体は、能役者・斎藤十郎兵衛という説が有力だが、実は蔦屋重三郎だったという噂もあるらしい)は、生前は人気が出ることもなかったものの、その浮世絵は、ドイツ人の美術研究家であるユリウト・クルトに高く評価されました。
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三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(東洲斎写楽の作)
引用元「Wikipedia」より
クルトは、1910年に出版した「SHARAKU」という著書において、東洲斎写楽のことを
「レンブラントやベラスケスと並ぶ、世界三大肖像画家」
と評価しています。
レンブラントは、オランダの宝である代表作「夜警」を描き、「光の魔術師」という異名をとった画家です。

夜警(レンブラント作)
引用元「Wikipedia」より
ベラスケスはというと、エドゥアール・マネから、「画家の中の画家」とまで評され、名作「ラス・メニーナス」を描いたスペインの画家です。(ラス・メニーナスとは、「女官たち」という意味)

ラス・メニーナス(ベラスケス作)
引用元「Wikipedia」より
アメリカの小説家「ジェームズ・ミッチェナー」という人も、1954年に自ら著書の中で、東洲斎写楽を高く評価し、レンブラントやベラスケスに匹敵すると評価しています。
いくらなんでも過大評価だとは思いますが、この2人と並ぶとは、東洲斎写楽が評価をされていたことがわかります。
世界的な画家と並び称されるほど、蔦重が見出した才能は、世界に認められたのです。
このように、開国と明治維新によって、蔦屋重三郎によって見出された才能は、広く世界で認められるようになります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,蔦屋重三郎の『死因』は?
死因は、脚気
2,蔦屋重三郎が【亡くなった日時】は?
西暦1797年5月31日(寛政9年5月6日)に亡くなった、享年48歳
3,蔦屋重三郎の【最後の様子】とは?
最後の様子は、「もう幕が下りて拍子木が鳴ってもいいのに、ずいぶん遅いな」と、自分の最期まで冗談で笑いに変えるような陽気な最期だった。
4,蔦屋重三郎の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は
「私は今日の昼時には死ぬよ」
その次に
「もう幕が下りて拍子木が鳴ってもいいのに、ずいぶん遅いな」
と冗談を言ったという
または「拍子木はまだ鳴らねぇのか?」という言葉が最期の言葉だったともいわれている
5,蔦屋重三郎の【子孫】とは?
子孫は不明だが、「TSUTAYA」と蔦屋重三郎に直接の関係はない。経営に子孫も無関係。
6,蔦屋重三郎の【死後に起こった出来事】とは?
死後、開国と明治維新により蔦屋重三郎が見出した才能が世界に飛び出し、影響を与えた
以上となります。
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