豊臣鶴松の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 鶴松の死因は病死
- 1591年9月22日に亡くなった
- 鶴松が死ぬ前に、父・秀吉は天下統一に成功した
- 鶴松は幼くして亡くなったため、直系子孫はいないが、伯母の子孫が今も続いている
- 鶴松の死後、朝鮮出兵・豊臣秀頼誕生・秀次切腹という歴史的事件が起こった
この記事では、豊臣鶴松の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
豊臣鶴松の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、豊臣鶴松の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
豊臣鶴松の【死因】と【最後の様子】
鶴松の【死因】
【結論】鶴松の死因は病死
くわしい病名は不明です
鶴松は生まれながらに病弱だったといわれています
そのため、亡くなる1年前と半年前にも病気になったといいます。
2度の病気が全快した鶴松でしたが、3度目の病気で亡くなってしまうのでした。
鶴松が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1591年9月22日(天正19年8月5日)、享年3歳
何歳で死んだの?
数え年だと、鶴松は3歳で亡くなりました。
1589年7月9日に誕生し、1591年9月22日に亡くなっているので、満年齢2歳2ヶ月で亡くなったことになります。
【豊臣鶴松の生涯と最期】をザッと解説
豊臣鶴松の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
鶴松の誕生
1589年7月9日、豊臣鶴松は、父・豊臣秀吉とその側室である淀殿(茶々)の子として誕生しました。
生誕地は、現在の京都市伏見区にあった淀城。
もともとの名前は棄丸といいました。
これは【棄て子はよく育つ】という、当時の言い伝えによって付けられた名前です。
秀吉は、生まれたばかりの子供を一度お寺に棄てたふりをしています。
直後に家臣に拾わせるという、まるで儀式のようなものを行ったのです。
秀吉の子供が誕生したことに対し、家臣や公家そして町人まで、あらゆるお祝いを贈ったとのことです。
その後、棄丸は鶴松と改名しています。
父・秀吉が天下統一を達成
鶴松の誕生から亡くなるまでのあいだに、父・豊臣秀吉は天下統一に成功しています。
鶴松が誕生した翌年の1590年、秀吉は小田原合戦を開始しています。
関東を支配していた北条氏政・氏直親子は、秀吉の大軍に降伏し滅亡。
1591年の奥州仕置も完了させた秀吉は、1467年の応仁の乱以来100年続いた戦乱の時代を終わらせています。
ところが鶴松は、秀吉が小田原合戦をしている最中から、病気を繰り返すようになります。
鶴松は、生まれながらに病弱だったのです。
鶴松の最期!
鶴松は、秀吉が小田原合戦に勝利した1年後に、病死しています。
数え年3歳、満年齢2歳2ヶ月という、あまりにも早い最期でした。
秀吉は小田原合戦から戻った直後、朝鮮使節に対して鶴松を披露したといいます。
このとき鶴松は、朝鮮使節のまえでお漏らしをしてしまったのだとか。
秀吉はこのことを笑ったといいますが、朝鮮使節は激怒したとのこと。
この一件で、朝鮮の秀吉に対する心象が悪くなったと考えられます。
鶴松は、亡くなる前に2度も発病し、秀吉はそのたびに、神社仏閣に全快の祈祷を命じています。
1591年2月15日、秀吉がもっとも信頼し、頼っていた弟・豊臣秀長が病死。
弟の秀長を失った直後から、秀吉は冷静な判断力を失っていきます。
1591年9月19日、鶴松が3度目の発病。
このとき秀吉は、鶴松の回復を京都・東福寺で祈っていました。
東福寺は、秀吉の妹であり、家康の正室でもあった旭姫のお墓があったお寺です。
1591年9月22日(天正19年8月5日)、鶴松は秀吉の祈りの甲斐もなく、淀城で亡くなっています。
享年3歳(満年齢2歳2ヶ月)
その遺骸は、秀吉が祈っていた東福寺へ運ばれました。
その後、鶴松の供養のために祥雲寺というお寺が建立されています。
しかし祥雲寺は、1615年の豊臣家滅亡後に廃寺されています。
現在も鶴松の遺品は、妙心寺に保管され、鶴松霊廟(祥雲院霊廟)は、今も残っています。
鶴松の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】鶴松は、辞世の句や最期の言葉を残さず亡くなった
鶴松は幼くして亡くなったため、辞世の句等は残されていません。
鶴松の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】鶴松に子孫はいないが、現在の天皇陛下は、鶴松の伯母の子孫にあたる
鶴松には子供がなかったため、子孫はいません。
しかし鶴松の伯母、つまり豊臣秀吉の姉の子孫が、現在の天皇陛下です。
秀吉の姉・日秀尼の息子の羽柴秀勝が、完子姫という娘を残している
その完子姫の子孫が、天皇陛下なのです
また、鶴松の弟にあたる豊臣秀頼には、三人の子供がいました
秀頼の息子・国松丸は、1615年の大坂夏の陣の直後に、徳川家康によって処刑されています
他の2人は女児であったため、鎌倉の東慶寺で出家。
その後、子孫を残さず亡くなっています。
国松丸は生きていて、現代に子孫を残しているという伝承はあるものの、確たる証拠はありません。
鶴松の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】鶴松の死後、朝鮮出兵・秀頼の誕生・秀次切腹という事件が起こりました。
鶴松の死後、秀吉は暴走します。
朝鮮出兵を強行して豊臣家は、その力を衰退させるのです。
鶴松が亡くなった後、秀吉は自分の後継者に、甥である豊臣秀次を指名します。
もう自分には子供ができないと考えたのでしょう。
ところが秀次を後継者とした直後の1593年、鶴松を産んだ淀殿が豊臣秀頼を出産しています。
秀頼を後継者としたい秀吉は、甥の秀次を無理やり切腹に追い込んでいます。
それだけではなく、秀吉は罪もない秀次の正室・側室・侍女・乳母合計39名と子供たち4名を全員処刑しています。
伊達政宗のいとこであり、最上義光の娘であった駒姫は、側室ではあったものの、上京途中で秀次と全く関係がないにも関わらず処刑されています。
鶴松の死後、朝鮮出兵や秀次の処分など、秀吉は暴走を繰り返しています。
朝鮮出兵によって力を失い、秀次を失って血縁者が亡くなった豊臣家は、その直後から一気に衰退していきます。
なぜこれほどまでに、秀吉は暴走を繰り返したのでしょうか?
その理由は、鶴松を失った悲しみからではありません。
秀吉がもっとも信頼していた弟・豊臣秀長が亡くなったためだと考えられます。
秀長は、秀吉がもっとも信頼していた人物で、とても優秀な相談相手でした。
信長や家康と違い、農民出身の秀吉には、親の世代から支えてくれる譜代家臣がいなかったのです。
つまり、心から信頼できる相談相手・参謀・軍師・ブレーンが、秀長以外にはいないのです。
軍師・黒田官兵衛にすらも、秀吉は疑いを抱いたといいます。
しかし秀長は、鶴松が亡くなる直前に病死しています。
人間が暴走するのは、自分の構想を形にして実現してくれる実務家や、相談相手がいなくなった場合でしょう。
秀吉は、【自分の血を引く息子に、豊臣家を受け継がせて存続させたい】という構想を抱いていました。
しかし秀長という相談相手を失い、どんな手段をとればそれが実現できるのかわからなくなったのでしょう。
その目的を達成するために、用意周到・用心深さは、まったくありません。
- 【朝鮮出兵して領土を手に入れて、家臣へ褒美として与えて豊臣家への忠誠を強くさせる】
- 【秀頼を後継者にするため、罪のない甥・秀次に濡れ衣を着せ、処刑する】
どうすれば、自分の願いが実現するか判断できない秀吉は、これらめちゃくちゃな政策を強行しています。
鶴松が亡くなった7年後の1598年、豊臣秀吉は病死。
1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、豊臣家と徳川家の力関係は一気に逆転します。
1615年、衰退した豊臣家は、豊臣秀頼と淀殿の死によって、滅亡することとなります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,鶴松の『死因』は?
死因は病死。くわしい病名はわかっていないが、もともと鶴松は病弱だった
2,鶴松が【亡くなった日時】は?
西暦1591年9月22日(天正19年8月5日)
享年3歳
3,鶴松の【最後の様子】とは?
最後の様子は、亡くなる1年前から、病気と回復を繰り返し、最後は淀城において亡くなった。父・秀吉は、京都・東福寺で回復を祈ったが、叶わなかった
4,鶴松の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、残されていない
5,鶴松の【子孫】とは?
子孫はいない。しかし現在の天皇陛下は、鶴松の伯母・天秀尼の子孫にあたる
6,鶴松の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、朝鮮出兵・秀頼誕生・秀次切腹という事件が起こった
以上となります。
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