お市の方の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- お市の方の死因は、自害
- 西暦1583年6月14日(旧暦・天正11年4月24日)に亡くなった
- お市の方が死ぬ前に、お市の夫である柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北した
- 【さらぬがに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな】という辞世の句を残した
- 子孫には、現在の天皇陛下がおられる
- 死後、大坂の陣という歴史的事件が起こった
この記事では、お市の方の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
お市の方の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、お市の方の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
お市の方の【死因】と【最後の様子】
お市の方の【死因】
【結論】お市の方の死因は、自害つまり自ら命を絶っています。
お市の方は、再婚相手である柴田勝家とともに、越前の北庄城落城と同時に自害して亡くなっているのです。
お市の方が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1583年6月14日(旧暦・天正11年4月24日)、享年37歳(満年齢36)
お市の方の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】お市の方の子孫には、現代の天皇陛下がおられる
現代の天皇陛下は、お市の方の子孫にあたられます。
お市には
- 茶々(淀殿)
- 初
- 江
という3人の娘がいました
そのうち茶々(淀殿)は、豊臣秀吉の側室となって、秀吉の子・豊臣秀頼を産んでいます。
次女の初は子宝にめぐまれず、江は徳川家康の息子・徳川秀忠と結婚し、三代将軍の徳川家光を出産。
実はこの江が、秀忠と結婚する前に、一人の姫を産んでいるのです。
江は、豊臣秀吉の甥にあたる羽柴秀勝と結婚しており、二人のあいだには完子という姫が産まれています。(羽柴秀勝は、関白・豊臣秀次の弟にあたる)
この完子の子孫が、現在の天皇陛下なのです。
以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。
→→→→→【お市の方の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
【お市の方の生涯と最期】をザッと解説
お市の方の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち
お市の方とは、織田信長の妹です。
母は土田御前、父は織田信秀。兄・織田信長とは、父母を同じくする妹にあたります。
兄・信長との年齢差は13歳といわれています。
お市の方の生い立ちは不明点がとても多いのです。
1547年、織田信秀の五女として誕生したというのですが、その後なにをしていたのかは不明点が多々あります。
一説によると、一度結婚していたが、何らかの理由により離婚したというのです。
その後お市の方は、信長の命により、北近江(滋賀県北部)の戦国大名・浅井長政と結婚しています。
浅井長政との結婚と、柴田勝家との再婚
お市の方は、浅井長政と結婚したあと、柴田勝家と再婚しています。
お市は、1564年から1568年のあいだに、北近江の浅井長政と結婚し、兄・信長と浅井長政の同盟関係を強化する役割を果たしています。
しかし1570年、長政が織田信長を裏切り、1573年に戦死すると、お市は実家である織田家へ返されています。
1582年、本能寺の変が起こり兄・織田信長が明智光秀に討たれると、その翌年には織田家でもっとも地位が高かった柴田勝家と再婚。
この結婚は、織田信長の三男である織田信孝が、織田家を守ろうとする柴田勝家とお市の方を結婚させることで、織田家の結束を固め、織田家を乗っ取ろうとする羽柴秀吉と対抗するためだったとも言われています。
(また近年の説では、秀吉が柴田勝家のお市の方へ対する好意を知り、それに応じて二人に結婚をすすめたとも考えられている)
お市の方の最期!賤ヶ岳の戦いと北庄城の落城
お市の方は、1583年の賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉に敗北した夫・柴田勝家とともに、北庄城で自害しています。
信長の死後、織田家は二つに分裂していました。
織田家を乗っ取ろうとする羽柴秀吉の一派と、織田家を守ろうとする柴田勝家の一派です。
お市の方は柴田勝家に嫁ぎ、羽柴秀吉に対抗して、織田家を守ろうとしました。
1583年、柴田勝家は羽柴秀吉とのあいだに起こった賤ヶ岳の戦いで敗北。
お市の方は柴田勝家とともに、北庄城落城と同時に自害して亡くなったのでした
お市の方の【辞世の句】とその意味を解説
【結論】お市の方の辞世の句は
「さらぬがに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」
です
お市の方が残した辞世の句は
「さらぬがに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな」
というものです。その意味は、以下の通り
ただでさえ、眠る暇すらもないほどに、夏の夜は短いというのに、ホトトギスよ、この世との別れをそれほど急かすのはなぜなのか?
自らの死を、ただ静かに悲しむ、とても寂しく悲しい歌です。
このとき、夫の柴田勝家もまた、同時に辞世の句を読んだと思われます。
「夏の世の 夢路はかなき 後の名を 雲居にあげよ 山郭公」
意味は以下の通りです。
まるで短い夏の夜のように儚い人生であったが、できることならば、山ホトトギスよ、私の名前を雲より高く持っていってくれ(後世へ我が名を語り継いでくれ)
- 夏の夜
- 夢路
- ホトトギス
という三つの言葉が二人の辞世の句に共通している点からして、お市の方と柴田勝家は、同時に辞世の句を読んだと考えられます。
お市の方の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】お市の方の死後、大坂の陣という事件が起こりました。
1583年、お市の方が亡くなった32年後の1615年に、大坂夏の陣が起こり、お市の方を死へと追いやった豊臣秀吉がつくりあげた豊臣家は滅亡しています。
お市の方の長女・茶々(淀殿)と、その子・豊臣秀頼は、この大坂夏の陣で徳川家康・徳川秀忠に滅ぼされているのです。
茶々は、お市の方が亡くなった後、そのお市の仇である秀吉の側室となり、秀頼を出産しました。
そしてお市の方の三女・江の夫である徳川秀忠は徳川軍の総大将として、この大坂夏の陣で、茶々と秀頼を攻め滅ぼしたのです。
お市の方を死に追いやった豊臣秀吉ですが、お市の長女である茶々が秀頼を産んだことで、なんとか家が断絶することをまぬがれていました。実際、茶々が秀頼を産んだことに、秀吉は狂喜乱舞しています。
ところがせっかく繋いだ豊臣の血筋は、お市の方の三女・江の夫である徳川秀忠と、その父・家康によって、滅ぼされることとなったのです。
お市の仇は、ある意味で果たされたことになります。お市の長女である茶々(淀殿)という犠牲をともなって・・・ですが。
余談かもしれませんが、お市の方の長女である茶々は、浅井長政の娘ではないという説があります。
先ほど、お市は浅井長政と結婚する前に、何者かと一度結婚していたという説があると申しましたが、茶々はその初婚の男性とのあいだに生まれた子だというのです。
そのため、お市の方が産んだ次女の名前は、浅井長政とお市の方が最初にもうけた子だから【初】と名付けられたのだとか。
この説は、定かではありませんので、信ぴょう性に乏しいともいわれています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,お市の方の『死因』は?
死因は自害
2,【亡くなった日時】は?
西暦1583年6月14日(旧暦・天正11年4月24日)
享年37歳(満年齢36)
3,【最後の様子】とは?
最後の様子は、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗北した夫・柴田勝家とともに、北庄城で自害した
4,【辞世の句】とは?
辞世の句は【さらぬがに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな】
5,【子孫】とは?
子孫には、現在の天皇陛下がおられる
6,【死後に起こった出来事】とは?
死後に大坂の陣という事件が起こった
以上となります。
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