夏目吉信(別名・夏目広次)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 夏目吉信の死因は、三方ヶ原の戦いでの戦死
- 夏目は、西暦1573年1月25日(元亀3年12月22日)に亡くなった
- 夏目は死ぬ前に、絶対絶命だった主君・徳川家康を逃した。
- 夏目は、家康の身代わりとなって戦死した
- 夏目には、夏目漱石という子孫がいる
- 夏目の死後、徳川家康が天下を支配し、江戸幕府をつくった
この記事では、夏目吉信の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
夏目吉信の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、夏目吉信の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
夏目吉信の【死因】と【最後の様子】
夏目吉信の【死因】
【結論】夏目吉信の死因は、戦死です。
夏目吉信が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1573年1月25日(元亀3年12月22日)、享年55歳
夏目吉信の子孫の現在とは?
【結論】夏目吉信の子孫ではないが、同族には明治時代の文豪・夏目漱石という人物がいる
夏目吉信の子孫は、その後も徳川家に仕えました。
夏目吉信の四男・吉忠が父の後を継ぎましたが病死。
その直後に息子の万千代も病死。
また、三男・信次は出奔して別の姓を名乗って他家につかえていましたが、その後は弟の吉次とともに、あらためて徳川家に仕えることとなりました。
申し訳ないのですが、子孫のその後について、詳細は不明です。
また、明治の文豪・夏目漱石は、この夏目一族の子孫を自称していました。
ただ、漱石自身は夏目吉信の子孫というわけではないようです。
夏目漱石は夏目吉信の直系子孫ではなく、夏目漱石と夏目吉信は、ともに平安時代から鎌倉時代に活躍した夏目左近将監国平という人物の子孫であるともいわれています。
または、夏目漱石は夏目吉信の曾孫である夏目吉之の子孫であるという説もあるようです。
余談になるかもしれませんが、夏目漱石の現在の子孫(漱石の孫)である夏目房之介さんは、漫画コラムニストとして活躍しておられます。
【夏目吉信の生涯と最期】をザッと解説
夏目吉信(広次)の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち
1518年、夏目吉信は、古くから徳川家につかえていた武士の家・夏目家の当主・夏目吉久の長男として生まれました。
出身地は、現在の愛知県額田郡幸田町、当時は三河国幡豆郡六粟村というところです。
夏目吉信は、多くの戦で武功をあげ活躍。
三河一向一揆をご存知でしょうか?
忠誠心に厚い夏目吉信ですが、実は一度、徳川家康を裏切っているのです。
三河一向一揆で、徳川家康を裏切る
1561年に起こった三河一向一揆で、夏目吉信は主君・徳川家康を裏切っています。
三河一向一揆とは、三河国の宗教一派である一向宗が起こした一揆です。
一揆とは、すなわち農民反乱のことです。つまり、一向宗という宗教と、その信者である農民が、国主である家康に反乱を起こしたのです。
夏目吉信は、とても熱心な一向宗の信者でした。
主君と信仰と、どちらを取るべきか迷い抜いた夏目吉信は、主君・家康を捨てて信仰を選んだのです。
ところが、仲間が夏目吉信は忠誠心に厚い人物であると家康に助命嘆願したため、夏目吉信は徳川家への帰参を許されたのでした。
この家康の決断が、三方ヶ原の戦いで、その命を救うことになるのです。
夏目吉信の最期!三方ヶ原の戦い
夏目吉信は、家康の身を案じて敵陣に突入し、激しい戦闘を繰り広げました。
しかし、数的に劣勢だった徳川方は次第に敗れ始め、吉信は家康を逃がすために奮戦。
家康を守るために、夏目吉信は壮絶な戦死を遂げたのです。
夏目吉信の【最後の行動】を解説
【結論】夏目吉信の最期の行動は、三方ヶ原の戦いで、主君・徳川家康を守り、自分は身代わりになって戦死した
夏目吉信は、家康を逃がすために奮闘し、敵に包囲される中で戦死したのです。
1573年、武田信玄が西上作戦と呼ばれる京都への進軍を開始しました。
その際に、信玄は家康の居城である浜松城の前を通過。
信玄の背後を攻撃しようとした家康は、武田軍25000人を、11000人の軍団で追撃。
三方ヶ原で対峙した両軍でしたが、圧倒的な強さを誇った武田軍団の勝利に終わったのです。
夏目吉信は、このとき浜松城の守備を担当していました。
しかし敗色濃厚である様子を城から見ていた夏目は、家康を救出するために出撃。
家康に撤退を進言したものの、家康はこれを拒み、敵に突撃しようとしたのでした。
夏目は説得を止めて、家康の馬の向きを無理やり変えて、その馬の尻を刀のみねの部分で叩き、強引に逃亡をさせたのでした。
夏目吉信は、十文字槍を手に、25騎の部下と共に、自分こそが徳川家康であると叫び、武田軍に突撃。
家康の身代わりとなって戦死したのでした。享年55歳。
彼の死に様は、勇敢で忠実な武将として後世に伝えられることとなりました。
余談かもしれませんが、徳川四天王のひとりである本多忠勝の叔父・本多忠真も、この三方原の戦いで家康を守るために、壮絶な戦死をしています。
夏目吉信の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】夏目吉信の死後、徳川家康が天下を制覇して江戸幕府をつくり、260年の平和を実現した。
夏目吉信の死後、徳川家康はさらに勢力を拡大し、日本統一に向けての道を歩み始めました。
その後、1600年の関ヶ原の戦いでライバルの石田三成を相手に勝利して、江戸幕府を開くことになります。
家康が開いた江戸幕府は、その後1868年の明治維新まで、世界史上でもめずらしいほど長い平和な時代を実現したのでした。
このように、夏目吉信の死が徳川家康の活躍の礎となったとも言われています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,夏目吉信の『死因』は?
死因は戦死
2,夏目吉信が【亡くなった日時】は?
西暦1573年1月25日(元亀3年12月22日)
享年55歳
3,夏目吉信の【最後の様子】とは?
最後の様子は、三方ヶ原の戦いで、武田信玄の軍から徳川家康を逃して、身代わりに戦死した
4,夏目吉信の【子孫】とは?
子孫は夏目漱石といわれている
5,夏目吉信の【死後に起こった出来事】とは?
死後に家康が天下を支配し、江戸幕府をつくって260年の平和を実現した
以上となります。
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