今川氏真の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 今川氏真の死因は病死または老衰
- 氏真は、西暦1615年1月27日(旧暦・慶長19年12月28日)に亡くなった
- 氏真が死ぬ前に、長年連れ添った妻・早川殿が先に亡くなった
- 氏真の子孫には、忠臣蔵で有名な吉良上野介や、上杉鷹山がいる
- 氏真の死後、戦国最期の戦である大坂夏の陣という歴史的事件が起こった
この記事では、今川氏真の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
今川氏真の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、今川氏真の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
今川氏真の【死因】と【亡くなった日】を簡潔に解説
今川氏真の【死因】
【結論】今川氏真の死因は病死または老衰
今川氏真の死因は病死または老衰であると考えられます。
あとでくわしく解説いたしますが、高齢で亡くなっているため、老衰の可能性も捨てきれません。
病気であるとするならば、くわしい病名については不明です。
今川氏真が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1615年1月27日(慶長19年12月28日)、享年77歳
今川氏真の子孫の現在とは?
今川氏真の現在の子孫は、宇宙探査機「はやぶさ」で有名な、上杉邦憲博士です。
実は、今川氏真には有名な子孫が多いです。
忠臣蔵の悪役で有名な吉良上野介も、今川氏真の子孫です。
さらに、アメリカのケネディ大統領が尊敬していたことでも有名な名君・上杉鷹山も、氏真の子孫です。
余談ですが上杉邦憲博士は、今川氏真の他にも
- 北条氏康
- 武田信虎
- 佐々成政
- 石田三成
などの血を引く子孫にあたります。
【今川氏真】の人物像と功績
生い立ちと家族背景
- 三河(愛知県東部)
- 遠江(静岡県西部)
- 駿河(静岡県中部)
戦国時代におかえる活躍と指導力
今川氏真の死因を詳細に解説
【結論】今川氏真の死因は、病死または老衰であると考えられます。
氏真の最期の戦いにおける政治的背景と戦局の変化
父・今川義元を織田信長に討ち取られた氏真は、同盟者であった甲斐(山梨県)の武田信玄と、妻の父でもある相模(神奈川県)の北条氏康と協力し、三河・遠江・駿河の3カ国を敵の侵略から守ることに力を尽くします。
ところが、父の仇である織田信長と同盟をむすんだ三河の徳川家康が進攻を開始し、氏真は窮地に立たされます。
さらに徳川家康は、武田信玄と協力して、今川氏真を挟み撃ちにします。
1569年、ついに今川家は滅亡。
氏真は、妻・早川殿の父親である北条氏康が支配する相模国へと落ちのびるのでした。
歴史資料に見る死因の検証
平均的な寿命が50年程度であるとされる戦国時代・江戸時代の当時としては長寿である77歳まで生きている点を考えると、病死または老衰で亡くなったと考えるのが自然であると思います。
もし病死だとするなら、くわしい病名は不明です。
氏真が亡くなった1615年は、大坂冬の陣が行われた翌年です。
当時はそれほど大きな戦争が頻発していたわけではないので、氏真は平和な江戸で、家族に見守られながら穏やかに亡くなったと考えられます。
今川氏真の最期の状況
【結論】今川氏真は、江戸で亡くなった。葬儀は弟・一月長得がおこなった
今川氏真が経験した最期の戦い
晩年は77歳まで長生きした今川氏真でしたが、最期に経験した戦いは30代のとき、のちに氏真を保護することとなる徳川家康との【掛川城の戦い】でした。
1568年、徳川家康は武田信玄と協力して、今川氏真が支配する遠江・駿河の2カ国へ攻撃を開始。
遠江・掛川城へ籠城した今川氏真を、徳川家康の軍団が攻撃。
翌年の1569年まで耐え抜いた氏真でしたが、城兵の命を助けることを条件に開城し、徳川家康に降伏したのでした。
今川氏真に対する戦後の処遇
氏真は、掛川城を開城して降伏したのち、妻・早川殿の父である北条氏康に保護されて、相模国(神奈川県)へ移動します。
その後の今川氏真は、各地を転々とすることになります。
1572年、今川氏真はそれまで住んでいた相模国・小田原から、徳川家康の住む遠江・浜松へと移動したと考えられます。
1591年頃、豊臣秀吉によって天下統一が達成された頃には、京都へ移り住んでいたと考えられます。
1612年、徳川家康は今川氏真に、江戸の品川に屋敷を与えています。
一説によると、氏真はたびたび江戸城に家康をたずねて、長い話しを繰り返して、家康をうんざりさせたのだとか。
そのため家康は氏真を遠ざけるために、品川に屋敷を与えたとのこと。
おそらく今川氏真は、この品川の屋敷で亡くなったのでしょう。
1613年、妻・早川殿が死去。
1615年、今川氏真・死去。
その葬儀は、氏真の弟である一月長得がおこない、現在の東京都中野区にある萬昌院に葬られました。
その後、お墓は東京都杉並区今川二丁目の、観泉寺というお寺に移され、妻・早川殿とともに眠っています。
→→→→→→【今川氏真の妻である早川殿の最期と死因】についてくわしくはこちら
今川氏真の死後の影響と評価
【結論】今川氏真の死後、大坂夏の陣という事件が起こりました。
今川家の死後の影響
今川氏真が亡くなると、今川家は徳川幕府において、領地は少ないが身分は高いという高家というあつかいをされ、長く続くことになります。
今川氏真が亡くなった数ヶ月後、大坂夏の陣が勃発。
この大坂夏の陣で徳川家康によって豊臣秀頼が討たれ、豊臣家は滅亡。
戦国という混乱の時代は終わり、250年におよぶ平和な時代が始まるのでした。
そんな中で、今川氏真は歌人として評価され、後水尾天皇によって選ばれた優れた歌人たち集外三十六歌仙に選ばれています。
この集外三十六歌仙の中には、氏真の叔父にあたる武田信玄や、妻の父・北条氏康やその子・氏政も数えられています。
歌人として、今川氏真は優れていたといえるでしょう。
→→→→→→【今川氏真と早川殿の子孫が現代も活躍している】についてくわしくはこちら
歴史的評価と記念施設
今川氏真は、名門・今川家を滅亡へ追いやった愚かな武将として有名です。
和歌や蹴鞠ばかりに熱中して、武将に必要な知恵や武芸をおろそかにした愚将として描かれることが多い今川氏真ですが、なかにはその教養を評価し、決して暗愚な武将ではなかったと再評価する声もあるようです。
2023年の大河ドラマ【どうする家康】において、今川氏真は決して愚かな武将というわけではなく、必死に父・今川義元に認めてもらおうと修行を怠らないにしない実直な武将として描かれています。このような今川氏真像が、現実にもっともちかいのかもしれません。
しかし氏真が、室町幕府の頂点に君臨する足利将軍家とも縁のある名門・今川家を滅亡させた当主であることは事実であるため、評価は厳しいものとなっています。
氏真はのちに、父・今川義元の仇である織田信長の前で、得意だった蹴鞠を披露しています。
父の仇の前でそのようなことをさせられるなど、当時の武人としては屈辱的なことであると感じ取られたのでしょう。
現在、今川氏真を記念する施設としては、静岡県静岡市にある駿府城公園があります。
このお城は、徳川家康が住んだ城・駿府城の跡地です。
実は、この駿府城公園の近くに、今川氏真や今川義元が本拠地とした今川館があったと考えられています。
ところが、今川館の跡地に駿府城が建設されたわけではないので、正確にいえば駿府城公園に今川氏真が住んでいたわけではありません。
実際のところ、今川氏真が住んでいた今川館が、現在の静岡市のどこにあったのかは不明なのです。
また、今川氏真とその妻・早川殿がともに描かれている肖像画が現存しているとのことですが、それはアメリカ人のとある人物が個人で所有しているとのことです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,今川氏真の『死因』は?
死因は病気または老衰
2,氏真が【亡くなった日時】は?
西暦1615年1月27日(慶長19年12月28日)、享年77歳
3,氏真の【最後の様子】とは?
最後の様子は不明だが、家族に見守られながら江戸で静かに亡くなったと思われる
4,氏真の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は不明。それらしい記録は何も残されていない
5,氏真の【子孫】とは?
子孫は、忠臣蔵で有名な吉良上野介
6,氏真の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、大坂夏の陣という事件が起こった
以上となります。
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