石田三成(いしだ みつなり)の【死因】や【最後の言葉】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 石田三成の死因は、処刑。
- 亡くなったのは、1600年11月6日。
- 「関ヶ原の戦い」の後、京都・六条河原にて処刑された。
この記事では、石田三成の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
石田三成の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
石田三成の【死因】と【亡くなった日】
石田三成の【死因】
石田三成は「関ヶ原の戦い」に敗れた後、六条河原で処刑されて亡くなりました。
斬首刑で亡くなったので、死因は斬首です。
石田三成は誰に殺されたの?
三成は、徳川家康に関ヶ原の戦いで敗北して捕えられ、家康の命令で処刑されました。
直接手を下したのは、処刑人ですが、そのくわしい名前は記録に残っていません。
ですので、誰に殺されたのかというと、徳川家康といってよいでしょう。
石田三成が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1600年11月6日
旧暦:慶長5年10月1日
享年:数えで41歳(生年は1560年だが月日が不明)
石田三成の【最後の様子】と【最後の言葉】は?
最後の様子とそこに至るまでの経緯
石田三成は京都の六条河原にて処刑されました。
事の発端は慶長5年9月(西暦1600年)。
石田三成は徳川家康の上杉征伐にあわせて挙兵し、三成率いる西軍と家康率いる東軍が「関ケ原」にて衝突しました。
いわゆる「天下分け目」の関ケ原の戦いです。
当初は西軍が善戦するも途中で小早川秀秋らが寝返ると総崩れとなり、三成は近江国の農民に匿われました。
かつて飢饉に見舞われた際、農民は領主だった石田三成に助けられていたのです。
ところが徳川方に見つかってしまったため三成は自ら出頭しました。
家康に引き渡された三成は、慶長5年10月1日に処刑されることとなります。
石田三成の【最後の言葉】
しかし、三成は約束された死を前にしても最後まで諦めませんでした。
こんなエピソードが残っています。
処刑の直前、三成は警備兵に「水が欲しい」と言いました。
警備兵は水がなかったので、代わりに甘柿を差し出します。
すると三成は
「痰の毒である。そんなものは食べられぬ」
と言います。
警備兵はおかしくなって笑います。
「これから死のうという者が、どうして毒など気にするのだ」
それに対し三成はこう言いかえしました。
「大義をおもふものは、首を刎ねらるる期までも命を惜しむは、何とぞ本意を達せんと思ふゆゑなり」
(大義を思う者が首をはねられるその時まで命を惜しむのは、どうにか本意を成し遂げようと思うからだ)
これが、事実上の石田三成の最後の言葉となりました。
身内に敵が多く「嫌な奴」として描かれることさえある石田三成。
しかし名もなき自分を重用してくれた豊臣秀吉、そして豊臣家への忠義は、他の誰にも負けないほど固いものだったのではないでしょうか。
その後、三成は処刑され「本意を達する」ことなくこの世を去りました。
享年41。
石田三成の【辞世の句】とその意味とは?
石田三成の辞世の句が残っています。
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
「筑摩江」とは琵琶湖の入り江のこと。
石田三成は近江国(現在の滋賀県)の生まれで、近江国長浜城主だった秀吉に見初められ、近江国の佐和山城を任されました。
三成にとって、近江国の真ん中に位置する琵琶湖はなじみ深いものだったのでしょう。
歌の意味は
「筑摩江の葦の間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身であるよ」
といったところ。
大義に燃える心もろとも消えゆく運命に、あるいは無念を感じていたのかもしれません。
石田三成の【子孫】は、どうなったのか?
石田三成の子はいずれも徳川家からの罰を逃れ、なかには現在まで続く家系もあります。
石田三成には3男3女がいたとされ、その半数が津軽藩の藩主である津軽氏に身を寄せました。
津軽氏が三成の子孫を保護したのは、かつて秀吉に討伐されそうになったのをとりなしてもらった恩があったためといわれています。
それでは、簡単に三成の子孫についてみていきましょう。
長男・石田重家
まず長男は「石田重家」といいます。
重家は関ヶ原の戦いの後、一族を弔うために出家しました。
重家の子孫は、徳川家康の孫・松平忠直のもと、現在の新潟県妙高市の新田開発を担当しやがて定住。
その末裔は妙高市にて「石田館 妙高ホテル」という宿を経営していました。
次男・石田重成
続いて次男・「石田重成」です。
重成は津軽藩・津軽氏に保護され、「杉山源吾」と改名し家老を務めました。
源吾の子孫はそのまま津軽氏に仕えたといいます。杉山氏は、津軽藩の忍者集団をひきいた棟梁だったといわれています。
源吾の系譜は現在も続いていて、末裔にあたる「白川亨」氏は石田三成の研究家でした。
三女・辰姫
津軽氏を頼ったのは次男だけではありません。
三成の長女(名前不詳)や三女・「辰姫」も津軽氏のもとに身を寄せています。
とくに辰姫は津軽藩第2代藩主・津軽信枚(のぶひら)の妻となり、第3代藩主となる信義を生んでいます。
信義にはじまる「石田家の血を引く津軽藩主」は、その後もしばらく続きました。
次女・小石殿
その一方で石田家の血は徳川将軍家や皇室にまで伝わります。
次女・「小石殿」の家系です。
小石殿は蒲生氏の家来に嫁ぎますが、その孫娘・「お振の方」が第3代将軍・徳川家光の側室になったのです。
お振の方と家光との間には「千代姫」という娘が生まれ、尾張徳川家に嫁ぎました。
千代姫の子孫は現在まで家光の血筋を伝えているほか、皇室にまで石田家のDNAを伝えることになります。
ちなみに家光の側室は美人揃い。
「お振の方」も美しかったのではないかと推測されます。
三男・佐吉
最後に三男・佐吉の話をしましょう。
佐吉は関ヶ原の戦いの際、祖父や伯父(正澄)とともに佐和山城にいました。
佐和山城は三成が豊臣秀吉から拝領していた縁ある城。
そこに徳川軍が迫ります。
石田方はよく戦いましたが、衆寡敵せず講和を決断。
話し合いは「石田正澄の自害と引き換えに城兵の命を救う」ことで一致しました。
ところが石田方が城を明け渡す準備をしている間に徳川軍が乱入!
石田正澄だけでなく祖父ら一族が自害するという悲劇が起こります。
徳川軍との交渉役を務めた家来は、この仕打ちに激怒。
家康に対し「佐吉の助命」を承諾させます。
助かった佐吉は後に出家。
法名は「清幽」……かつて家康に自分の助命をとりつけてくれた家臣の名だそうです。
このように石田三成は江戸幕府の敵でしたが、その子どもは追及を逃れて多様な人生を歩みました。
その甲斐あってか、三成のDNAは意外なところにまで伝わっているのです。
石田三成の【死後に起こった出来事】とは?
三成の死後・徳川家康が時代の主導権を握ります。
もともと徳川家康は豊臣秀頼を支える「五大老」の地位にありました。
野心をみせれば、他の「五大老」によって封殺されるようになっていたのです。
しかし秀吉が死ぬと、家康は天下をとるために暗躍をはじめます。
豊臣氏よりも優位に立てるよう、味方を増やしながら豊臣政権の力を削いでいったのです。
「関ヶ原の戦い」はそうした家康の動きに対抗する意味あいがありました。
「秀吉の遺志を継いで豊臣家を支えていくべき」という石田三成と「豊臣家にかわって主導権を握ろう」とする徳川家康との対立だったのです。
「関ヶ原の戦い」で石田三成らを失った豊臣氏は、その領地まで再編され弱体化。
反対に徳川家康はますます力をつけ、戦国時代はクライマックスへ突き進みます。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,石田三成の『死因』は?
【処刑】
2,石田三成が【亡くなった日時】は?
1600年11月6日(慶長5年10月1日)
享年41。
3,石田三成の【最後の様子】とは?
関ヶ原の戦いの後、京都・六条河原で処刑された。
4,石田三成の【辞世の句】とは?
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
5,石田三成の【子孫】とは?
松前藩や徳川将軍家など様々な家系に伝わり、なかには現在まで続くものもある。
6,石田三成の【死後に起こった出来事】とは?
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康がますます力をつけ、時代の主導権を握る。
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント