三条天皇の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 三条天皇の死因は、病気。もしかすると水銀中毒かもしれない
- 西暦1017年6月5日(寛仁元年5月9日)に亡くなった、宝算42歳
- 死ぬ前に、最後の様子は、息子の敦明親王を次の天皇にすることを藤原道長と約束し、崩御されたした
- 「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」という辞世の句または言葉を残した
- 現在の天皇陛下は、女系子孫にあたられる
- 死後、、息子の敦明親王の皇太子辞退、という歴史的事件が起こった
この記事では、三条天皇の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
三条天皇の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、三条天皇の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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三条天皇の【死因】と【最後の様子】
三条天皇の【死因】
【結論】三条天皇の死因は、病気
三条天皇は、42歳という若さで亡くなっているので、病気が死因であると考えられます。
その病名は不明ですが、眼病を患っており、視力を失っていたことがわかります。
もしかすると、三条天皇は、水銀中毒だったのかもしれません。
三条天皇は藤原道長から、仙丹つまり霊薬とされる薬を渡され、それを飲んだといいます。(このとき道長も同じ薬を飲んだという)
その直後に失明しているのです。
秦の始皇帝も水銀を不老不死の妙薬だと思い込んでいました。
それを飲み続けて、始皇帝は亡くなったわけです。
三条天皇も、始皇帝と同じ理由で亡くなったのかもしれません。
三条天皇が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1017年6月5日(寛仁元年5月9日)、宝算42歳
天皇が崩御された場合、享年ではなく宝算というのだそうです。
三条天皇の【生涯年表】
三条天皇の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
976年 | 冷泉天皇の第二皇子として誕生 |
986年 | 花山天皇の譲位により、従弟の一条天皇が即位 |
986年 | 11歳で東宮(皇太子)となる |
989年 | 藤原綏子が入内 |
991年 | 藤原娍子が入内 |
994年 | 敦明親王を儲ける |
995年 | 藤原原子が入内 |
1010年 | 藤原妍子が入内 |
1011年 | 一条天皇の譲位により即位 |
1012年 | 藤原妍子が中宮となる |
1012年 | 藤原娍子を皇后とする |
1013年 | 藤原妍子が禎子内親王を出産 |
1014年 | 眼病を患う |
1016年 | 後一条天皇に譲位 |
1017年 | 出家 |
1017年 | 42歳で崩御 |
三条天皇が残した【有名な和歌】とその意味を解説
【結論】三条天皇が残した有名な和歌は
「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」
です。この歌は、小倉百人一首に選ばれています。
この和歌の現代語訳は、以下のとおりです。
自分の本意ではないけれど、この苦しい世の中に生きながらえていたなら、きっと恋しく思い出すに違いない、今夜のこの美しい月のことを。
- 心にもあらで:自分の本意ではない
- うき世:苦しい世の中
- ながらへば:生きながらえていたなら
- 恋しかるべき:恋しく思い出すに違いない
- 夜半の月:夜更けの月
この歌は、作者である三条天皇が、病に苦しんでいる時に詠んだ歌です。
三条天皇は病に侵され、このまま死んでしまうかもしれないという不安を抱えていました。
しかし、もし生き延びることができたなら、今見ている美しい月は、苦しい世の中を生き抜くための心の支えになるだろうという思いを歌にしました。
この歌は、人生の苦しみと希望を歌った美しい歌として、百人一首の中でも特に人気のある歌の一つです。
この三条天皇の歌は、同じように病で苦しむ人たちに、希望を与えてくれるに違いありません。
三条天皇の【子孫】は現在、どうなっているのかを解説
【結論】三条天皇の子孫には、現代の天皇陛下がおられる
三条天皇の息子である敦明親王は、三条天皇が崩御された直後に皇太子を辞めているため、天皇になれませんでした。
しかし三条天皇の娘で、敦明親王の妹にあたる禎子内親王が、後一条天皇の皇后となっています。
そして、藤原道長の孫である後一条天皇と、三条天皇の娘である禎子内親王のあいだに、後三条天皇が産まれるのです
この後三条天皇が、藤原氏を外戚つまり母方の実家とはしない170年ぶりの天皇だったのです。
そのためか、後三条天皇とその息子である白河法皇は、藤原氏の栄華を終わらせる政治を行うこととなるのです。
三条天皇の息子である敦明親王は、天皇になれませんでした。
しかし孫の後三条天皇を通じて、三条天皇の子孫は、現在の天皇陛下へとつながっているのです。
三条天皇の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】三条天皇の死後、息子の敦明親王の皇太子辞退、という事件が起こりました。
三条天皇が亡くなった4ヶ月後、皇太子つまり次の天皇候補だった息子の敦明親王が、皇太子を自分からやめるという事件が起こりました。
これはつまり、敦明親王が、次の天皇にならないと、自分から言い出したことを意味します。
実は三条天皇は、絶対権力者だった藤原道長と、とても仲が悪かったのです。
そこで道長は、自分の思い通りに動かない三条天皇よりも、自分の孫である後一条天皇を天皇の位につけて、政治を思うままに操りたいと思っていたのです。
しかし三条天皇は、位をゆずろうとしません。
そんな中で、三条天皇は眼病が悪化して、目が見えなくなってしまいました。
そこで三条天皇は、位を後一条天皇にゆずる代わりの条件として、後一条天皇の次の天皇は、自分の息子である敦明親王にしてほしいと、藤原道長に要求したのです。
この条件を、藤原道長は受け入れます。
1016年、三条天皇は天皇の位を、道長の孫の後一条天皇にゆずっています。
1017年、三条天皇は亡くなります。
その4ヶ月後、皇太子となっていた三条天皇の息子・敦明親王は、皇太子を辞退したのです。
なぜ、敦明親王は、皇太子を辞退したのでしょうか?
その理由は、敦明親王に対して藤原道長が、皇太子を辞退するように、無言の圧力をかけたためといわれています。
つまり藤原道長は、三条天皇との約束を破ったことになります。
その後、皇太子を辞退した敦明親王は、藤原道長の娘である藤原寛子を妻としておくられ、優遇されたのでした。
ところが、寛子を妻としたことに、敦明親王の妃である延子と、その父である藤原顕光は驚愕。
元々の妻であった延子は、敦明親王に捨てられる形となったのです。
延子と、その父・藤原顕光は、直後に二人とも亡くなったといいます。
延子と藤原顕光は、寛子の最期の瞬間には、怨霊となって姿を現したといいます。
そのためか、左大臣・藤原顕光は、悪霊左府とよばれたといいます。
三条天皇との約束を破った藤原道長は、天罰なのか、そのせいで藤原氏の栄華が終わることとなります。
理由は先ほど解説したとおり、三条天皇の孫である後三条天皇が、藤原氏の栄華を終わらせる政治を行ったことです。
もしも道長が、三条天皇との約束を守って、その子である敦明親王を即位させていたら、後三条天皇は誕生しなかったかもしれません。
不思議なもので、道長が三条天皇との約束を守らなかったために、後三条天皇という藤原氏の天敵が誕生しているわけです。
藤原道長は、その後、後一条天皇に対して娘の藤原威子を入内させて、「この世は我がよ」という、望月の歌を読むほどの権力の絶頂をむかえるのです。
そして道長は、九体の阿弥陀如来像に囲まれながら、亡くなることになります。
余談ですが、三条天皇は祖父である藤原兼家とよく似ていたため、兼家から寵愛されたといいます。
藤原兼家は、藤原道長の父です。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,三条天皇の『死因』は?
死因は、病気。もしかすると水銀中毒かもしれない。
2,三条天皇が【亡くなった日時】は?
西暦1017年6月5日(寛仁元年5月9日)に亡くなった、宝算42歳
3,三条天皇の【最後の様子】とは?
最後の様子は、息子の敦明親王を次の天皇にすることを藤原道長と約束し、崩御された
4,三条天皇の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は▢▢
5,三条天皇の【子孫】とは?
現在の天皇陛下は、女系子孫にあたられる
6,三条天皇の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、息子の敦明親王の皇太子辞退、という事件が起こった
以上となります。
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