お愛の方(西郷局)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- お愛の方の死因は、心労による病死
- 西暦1598年7月1日(天正17年5月19日)に亡くなった
- お愛の方は、のちの2代将軍・徳川秀忠を産んだ
- お愛の方には、徳川慶喜という子孫がいる
- 死後、朝日姫の死と、小田原征伐という歴史的事件が起こった
この記事では、お愛の方の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
お愛の方の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、お愛の方の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
お愛の方の【死因】と【最後の様子】
お愛の方の【死因】
【結論】お愛の方の死因は、病死
お愛の方は、駿府城で静かに亡くなっています。
その死因については、心労の原因で病死したという説が一般的です。
この頃、お愛の方は徳川家康から、正室つまり正妻としてあつかわれていました。
そのため、徳川家をまとめる役割を任されて、心身に無理が祟ったのだとも考えられます。
お愛の方は、築山殿に毒殺されたのか?
お愛の方には、徳川家康の正室である築山殿の侍女に毒殺されたという噂があります。
徳川家康からの寵愛を受けたお愛の方に、強烈な嫉妬心を抱いた築山殿が、侍女を使って毒殺したというのです。
しかし、この話は信ぴょう性に乏しいので、後世の創作である可能性が高いです。
築山殿はお愛の方が亡くなる10年も前に、夫の徳川家康によって処刑されています。
築山殿が亡くなった10年後に、築山殿の侍女が恨みを忘れず、お愛の方に復讐したという考え方も出来なくもないですが、現実的ではないと思います。
やはり、病死したというのが現実的な考え方でしょう。
お愛の方が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1589年7月1日(天正17年5月19日)、享年28歳(または30歳や38歳で亡くなったという説もある)
お愛の方の享年については、諸説あり、はっきりとはわかっていません。
30歳で亡くなったとすると、お愛の方は前夫とのあいだの子を10歳前後で出産したことになるので、おそらくですが38歳で亡くなったのではないでしょうか。
【お愛の方の生涯と最期】をザッと解説
【お愛の方】の生涯を、ザッと解説いたします。
お愛の方の前半生
ときは戦国時代、三河(愛知県東部)の豪族・戸塚家で、お愛の方は誕生しています。
父を戦で亡くした彼女は、母方の祖父である西郷正勝に保護され、育てられたのでした。
いとこにあたる西郷義勝と結婚し、一男一女を儲けます。
ところが夫の西郷義勝が、1571年、宿敵・武田勝頼の軍団を阻止するために奮戦し、戦死。
未亡人となってしまったお愛の方は、母親のもとに身を寄せたといわれています。
戦国乱世において、夫を失ったお愛の方は、ある人物と運命的な出会いを果たします。
徳川家康です。
築山事件
1578年、徳川家康がお愛の方が住む館を訪れ、彼女の美しさを気にいると、側室とするため浜松城へ連れ帰ります。
これ以降、お愛の方は西郷局と呼ばれることになります。
この頃、徳川家康は宿敵である武田勝頼を相手に苦戦していたのです。
さらに、家康は1579年に人生最大の痛恨事である【築山事件】を経験することになります。
なんと家康の正室である築山殿が家康を裏切り、宿敵である武田勝頼と密かに内通し、家康を討ち取ろうとしたのです。
それだけではなく、家康と築山殿の長男である松平信康も、この裏切りに加担していたのです。
家康にはこの1579年、お愛の方とのあいだに、三男・長丸(のちの徳川秀忠)が生まれていました。
家康は、妻・築山殿と松平信康を処刑します。
こののち、お愛の方は家康から、ほとんど正室として扱われることになります。
1580年、お愛の方は徳川家康の四男・松平忠吉を産んでいます。
お愛の方の最期!
1582年、宿敵である武田勝頼を滅ぼした家康が、京都へ織田信長の接待を受けている最中に、本能寺の変が勃発。
本能寺の変とは、織田信長が明智光秀に討たれるという大事件です。
家康は、のちに神君伊賀越えと呼ばれる必死の逃走劇で京都から逃げ帰ってくるのでした。
その後、急速に勢力を拡大したのが豊臣秀吉でした。
とてつもない勢いで天下の支配者として勢力を拡大していく秀吉に対して、家康も必死に応戦。
ところが圧倒的な秀吉に圧迫され、家康はついに屈服。
1586年、家康は正室として、秀吉の妹・朝日姫と結婚。そして同時に秀吉に臣下として屈服することになります。
その後、家康は秀吉からの命令で、関東と東北、つまり北条氏政と伊達政宗を監視し、降伏させるように命じられます。
多忙を極め、秀吉からの命令に応じていた家康は、お愛の方が体調を崩していたことに気づいていたのでしょうか・・・。
1589年、お愛の方は駿府城で静かに亡くなったといいます。
夫を戦で失い、家康によって愛されたお愛の方は、心優しく賢く、誰からも愛される人だったといいます。
とくに視力が弱かった彼女は、盲目の女性たちにとても献身的に尽くしたといわれています。
その死を悼んだ盲目の女性たちが、お愛の方が眠る寺へ集まり、祈りを捧げたのでした。
その後、お愛の方が産んだ2人の息子・秀忠と忠吉は、家康の子として活躍し、歴史にその名を刻むことになります。
弟・松平忠吉は、徳川四天王のひとり井伊直政の娘を妻とし、1600年の【関ヶ原の戦い】では義父・井伊直政とともに、先陣をきって敵軍に突っ込み、戦後は尾張国62万石の領地を支配します。
兄・徳川秀忠は、1605年に征夷大将軍に就任し、父・家康もかなわないと言わせた政治力で、徳川幕府260年の土台をつくりあげていきます。
お愛の方の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】お愛の方の辞世の句は、残されていない
お愛の方は、辞世の句や最期の言葉など、何も残していません。
お愛の方の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】お愛の方の子孫には、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜がいる
お愛の方の血筋は、息子で2代将軍となった徳川秀忠を通じて、徳川将軍家によって続いています。
秀忠の直系の男系子孫は、7代将軍・徳川家継で断絶しています。
秀忠の弟で、お愛の方が産んだもう1人の子供である【松平忠吉】は、若くして亡くなっており、子供はいませんでした。
また、秀忠の隠し子である保科正之の系統も、会津藩7代藩主・松平容衆を最後に断絶
ただし、徳川秀忠の長女・千姫を通じて、その血筋は最後の将軍である徳川慶喜につながっています。
徳川慶喜は、大政奉還を実現して徳川幕府を終わらせた、最後の将軍です。
徳川慶喜は、自らの別家である徳川慶喜家という家を起こしています。
その子孫にあたる4代目が、徳川慶朝さんです。
現在5代目の山岸美喜さんは、叔父である徳川慶朝さんから、徳川慶喜家の5代目当主を継承しておられます。
余談ですが、お愛の方が前夫の西郷義勝とのあいだに儲けた息子・西郷勝忠は、徳川家康の10男・徳川頼宣の紀州徳川家につかえたといわれています。
この異父兄に対して徳川秀忠は、何かと気にかけていたという説があります。
→→→→→【徳川秀忠の子供達や正室・側室】についてくわしくはこちら
お愛の方の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】お愛の方の死後、朝日姫の死・小田原征伐という事件が起こりました。
お愛の方が亡くなった翌年の1590年、徳川家康の正室であり、豊臣秀吉の妹にあたる朝日姫が亡くなっています。
同じく1590年、豊臣秀吉や徳川家康によって、小田原合戦が開始されています。
この小田原征伐で、北条氏政と伊達政宗が降伏。
翌年1591年に奥州仕置が終わり、秀吉の天下統一が正式に終了します。
それと同時に、徳川家康は秀吉から、関東への国替えを命じられ、生まれ故郷である三河やそれまでの居城があった駿河・駿府城から、関東の江戸へと本拠地を移すのです。
こうして、現在の東京の土台となる江戸の街づくりが始まったのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,お愛の方の『死因』は?
死因は、心労による病死
2,【亡くなった日時】は?
西暦1598年7月1日(天正17年5月19日)
享年28歳(30歳または38歳など諸説あり)
3,お愛の方の【最後の様子】とは?
お愛の方は、駿府城で病死したという。視力が弱かったお愛の方は、盲目の女性に優しかったため、大勢の盲目の女性が、お愛の方の死を悼んだという
4,【子孫】とは?
子孫として、徳川慶喜がいる
5,【死後に起こった出来事】とは?
死後に朝日姫の死・小田原征伐という事件が起こった
以上となります。
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ありがとうございました。
コメント
コメント一覧 (2件)
お愛の方の死亡は1589年の間違いでは?
こんばんは
この度は当サイトへおこしくださいましてありがとうございます
そして貴重な修正のご指摘をいただきありがとうございます
おっしゃる通り、1589年を間違えて1598年と記しておりました
ご指摘に心より感謝申し上げます
よろしければまたぜひ当サイトへお越しくださいませ
ありがとうございました
失礼いたします