MENU

大正天皇の死因と最後をわかりやすく解説!子孫のゆくえと死後に起こったこと

大正天皇たいしょうてんのうの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 大正天皇の死因は、肺炎による心臓麻痺。
  2. 大正天皇は、1926年(大正15年)12月25日に亡くなった。享年47歳
  3. 大正天皇は、幼少の頃から病弱で、1918年(大正7年)の末頃から、風邪をひいたのをきっかに、病状が悪化していき、脳障害をもかかり、歩行や会話もできなくなり そのまま衰弱していき、皇后陛下、皇太子 生母が見守られて亡くなった

この記事では、大正天皇の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

大正天皇の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、大正天皇の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

大正天皇の【死因】と【亡くなった日】

大正天皇の【死因】

大正天皇の死因は【肺炎による心臓麻痺】とされています

大正天皇が【亡くなった日】と【享年】

大正天皇は、1926年(大正15年)12月25日に亡くなりました。

享年47歳


スポンサーリンク

大正天皇の【最後の様子】は?

大正天皇は1918年(大正7年)末頃から、風邪をひいたのをきっかけに、天皇の公務ができない状態となり、皇族専用の別荘(御用邸)で療養生活を送るようになりました。

一時は回復にも向かいましたが、脳にも影響がみられるようにもなり、歩行や話すことも困難になっていきました。

公の場に姿を見せられなくなり、当時の政治家たちが状況を考慮した結果、当時皇太子であった、のちの昭和天皇が天皇の公務をするようになりました。

これは摂政せっしょうという制度です。

最後は、皇后陛下、皇太子(後の昭和天皇)、高松宮 生母である柳原愛子に見守られ、息を引き取られました。

大正天皇の手を最後まで握りしめていたのは、生母の柳原愛子さまでした。


スポンサーリンク

大正天皇の【最期の言葉】とその意味とは?

大正天皇に関して辞世の句はありません

ただ、大正天皇は生前にはたくさん句を詠まれ、才能豊かな句を残されたといわれています。

大正天皇は、俳句や和歌よりも漢詩を好まれたとのことです。

大正天皇の【子孫】は、どうなったのか?

大正天皇には皇后陛下の間に4人の男子の子供がおりました。

  • 廸宮裕仁親王みちのみやひろひとしんのう
    後の昭和天皇陛下(1901年~1989年)
  • 淳宮雍仁親王あつのみややすひとしんのう
    後の秩父宮殿下(1902年~1953年) 
  • 光宮宣仁親王てるのみやのぶひとしんのう
    後の高松宮殿下(1905年~1987年)
  • 澄宮崇仁親王すみのみやたかひとしんのう
    後の三笠宮殿下(1915年~2016年)

昭和天皇から上皇陛下へ、そして令和の現在の天皇は、大正天皇のひ孫にあたられます。

先日小室圭こむろけいさんとご結婚なさいました小室真子こむろまこさん、その妹の佳子内親王殿下、そして悠仁殿下、愛子内親王殿下は、大正天皇の玄孫にあたられます。


スポンサーリンク

大正天皇の【死後に起こった出来事】とは?

大正が終わり、すぐに元号が「昭和」に変わり、激動の昭和がはじまります。

天皇をよりいっそうの神格化することで、戦争に利用されます

大正天皇は、明治天皇の三男で、唯一成人まで育った後継の男子でした。

幼少の頃から、体が弱かったためか、大病を患うようになり、発達の遅れが目立つようになります。

天皇に即位してのち、それがまた顕著にあらわれるようになります。

その当時の政治家たちは、病弱な天皇よりも、明治天皇のような威厳のある天皇像をもとめるようなります。

幸いにも大正天皇は、皇太子妃となった九条節子との間に、四人の男の子を儲けることができました。

政治家たちは、後の昭和天皇となる皇太子の裕仁殿下に、明治天皇のような威厳のある天皇像を期待するようになります。

まさに昭和天皇は、明治天皇のような風格を兼ね備えており、軍部をはじめとする政治家たちは、天皇に強い神格化を備えることで、国民を束ねていくようになりました。

太平洋戦争中「天皇陛下万歳」といって敵艦に突っ込んでいく特攻隊というイメージに重なります。

戦後、アメリカは特攻隊という自分の命も惜しまないで敵艦に突っ込んでいく光景に、異常さを感じざるを得ませんでした。

アメリカは、その原動力となる天皇という存在を縮小させていく方針を掲げ、皇族の範囲(宮家)を縮小させていきます。


スポンサーリンク

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,大正天皇の『死因』は?

肺炎による心臓麻痺

 

2,大正天皇が【亡くなった日時】は?

1926年(大正15年)12月25日

享年47歳

 

3,大正天皇の【最後の様子】とは?

葉山の天皇の御用邸にて、皇后陛下、皇太子、生母柳原愛子に見守られ 息を引き取った。

 

4,大正天皇の【最期の言葉】とは?

脳障害があらわれていたため、辞世の句はありませんでしたが

生前はたくさんの句を詠み、才能豊かと評されました。

 

5,大正天皇の【子孫】とは?

大正天皇は、男子四人を皇后陛下である九条節子との間に儲けました。

  • 廸宮裕仁親王みちのみやひろひとしんのう
    後の昭和天皇(1901年~1989年)
  • 淳宮雍仁親王あつのみややすひとしんのう
    後の秩父宮(1902年~1953年) 
  • 光宮宣仁親王てるのみやのぶひとしんのう
    後の高松宮(1905年~1987年)
  • 澄宮崇仁親王すみのみやたかひとしんのう
    後の三笠宮(1915年~2016年)

そして、昭和天皇を通じて、現在の天皇陛下と秋篠宮殿下はひ孫になります。

  • 先日結婚された小室真子さん
  • 佳子内親王殿下
  • 愛子内親王殿下
  • 悠仁親王殿下

は、玄孫(やしゃご)になります。

 

6,大正天皇の【死後に起こった出来事】とは?

昭和天皇が即位し、明治天皇のような威厳のある強い天皇像をあたえることで、より強い神格化をさずけていくことで、国民を結束させていきました。

軍国主義に走り出していた当時の日本は、天皇を利用することで軍隊を束ねていきました

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次