朝日姫(旭姫)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 朝日姫(旭姫)の死因は、病死
- 1590年2月18日(天正18年1月14日)に亡くなった
- 死ぬ前に、母親である大政所の見舞いをしたという
- 朝日姫には子供はいないが、姉の子孫が現在の天皇陛下
- 死後、【小田原合戦】と、【徳川幕府の誕生】という歴史的事件が起こった
この記事では、朝日姫の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
朝日姫の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、朝日姫の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
朝日姫の子孫の現在とは?徳川家康と朝日姫に子供はいなかった
【結論】朝日姫には子供がいないため子孫もいないが、現在の天皇陛下は、朝日姫の姉の子孫にあたられる
朝日姫には、徳川家康とのあいだにはもちろんですが、前夫とのあいだにも子供がいませんでした。
そのため子孫もいません。
秀吉の子孫は大坂の陣で断絶していますし、豊臣秀長にも子供がいなかったため、豊臣家の男系子孫は残っていません。
しかし、秀吉や朝日の姉にあたる日秀尼の子供である羽柴秀勝の子孫が、現代の天皇陛下です。
日秀尼の息子・羽柴秀勝と、妻のお江の方のあいだには、完子姫という娘がいました。(羽柴秀勝の兄は、関白・豊臣秀次)
完子姫はその後、関白・九条幸家の妻となり、子孫を残しているのです。
その子孫が皇室へ嫁ぎ、現在の天皇陛下に血筋がつながっています。
ちなみに、完子姫が産まれたあと、父・羽柴秀勝は朝鮮出兵の最中に病死。
夫を亡くした【お江の方】は、徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・徳川家光を産んでいます。
朝日姫の【死因】と【最後の様子】
朝日姫の【死因】
【結論】朝日姫の死因は、病死
くわしい病名については定かではありませんが、【気うつの病】であるといわれています。
【気うつ】とは、すなわち意欲(エネルギー)はあるのだけども、そのエネルギーを上手に使うことができない状態らしいです。
ストレスが、病気の原因だったのかもしれません。
ちなみに【気うつの病】は、現代でいうところの【うつ病】とは違うもののようです。
豊臣秀吉の側室である淀殿こと茶々が、この気うつの病にかかったといわれています。
その症状は
- 胸の痛み
- 摂食障害
- 頭痛
などだったといわれています。
朝日姫が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1590年2月18日(天正18年1月14日)、享年47歳
朝日姫が亡くなった直後、豊臣秀吉は小田原征伐を成功させて、天下統一を成し遂げています。
【朝日姫の生涯と最期】をザッと解説
朝日姫の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
朝日姫【百姓から姫君へ】
朝日姫は、豊臣秀吉の異父妹として誕生しました。(同父妹という説もある)
尾張国(愛知県西部)の中村という地で農民として、貧しくも穏やかな日々を過ごしていたのです。
そんな朝日姫には、二人の兄がいました。
羽柴秀吉と羽柴秀長。
のちの天下人・豊臣秀吉と、大納言・豊臣秀長です。
兄・秀吉が、ドンドンと出世することで、朝日の生活は一変します。
長浜城・大坂城での豪華絢爛な生活が始まったのです。朝日姫の最期を考えると、このとき、朝日姫の悲劇が始まったのかもしれません。
豊臣秀吉 vs 徳川家康
秀吉は、戦国の覇王・織田信長が信頼した部下の一人でした。
秀吉は信長が本能寺の変で亡くなった後、その後継者として、一気に天下の支配者へと駆け上がったのです。
朝日は兄である秀吉の出世に引っ張られる形で、凄まじい速度で、生活が変わっていったのです。
そんな天下統一を目指す秀吉の前に、最大の敵が立ちはだかります。
徳川家康です。
家康は飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉軍団を、【小牧・長久手の戦い】で完膚なきまでに壊滅させた戦いの天才でした。
野戦の達人・徳川家康と直接戦うことが不利だと気がついた秀吉は、家康の味方を減らす策略に出ます。
秀吉は、家康に味方していた各地の武将たちを撃破していきます
- 織田信長の子・織田信雄
- 四国の覇者・長曾我部元親
- 紀州の鉄砲傭兵集団・雑賀衆
- 越中の猛将・佐々成政
これら家康に味方した武将たちは、秀吉に攻められ次々と降伏。味方を失った家康は、孤立無援となりました。
戦争回避のため、犠牲となる朝日姫
味方を全て失い孤立無援となった家康は、すぐに秀吉に降伏するかと思いきや、まったく降伏しません。
とはいえ秀吉は家康を殺したいわけではありません。
戦わずして降伏させ、織田信長すら頼りにしていた最強の武将・徳川家康を味方にすることこそ、秀吉がもっとも願っていたことなのです。
いくら秀吉が強くても、戦の達人・徳川家康と、日本でも屈指の強さを誇る三河兵や甲州兵を要する徳川軍団を滅ぼすとなると、秀吉の被害も甚大なものとなります。
それだけではありません。
秀吉は家康に大きな恩がありました。
1570年、金ヶ崎の退き口と呼ばれた戦いで、秀吉は家康に危ないところを助けられていたのです。そのため秀吉は、家康を殺したくはなかったわけです。
そこで秀吉は、自分の妹である朝日姫に目をつけました。
家康は、妻・築山殿を亡くして独身だったため、朝日姫を嫁がせて家康を自分の義弟にしてしまうことを思い付きます。
これは家康に対して
【降伏してくれれば、あなたを私の実弟・豊臣秀長と同等に大切に扱います】
という秀吉からのメッセージでもありました。
朝日姫は秀吉からの結婚命令に戸惑います。なんといっても朝日姫はすでに40歳を過ぎており、しかも夫もいたのですから。
ところが朝日は、兄・秀吉と家康の戦を未然に防ぐため、婚姻を承諾したのでした。
朝日姫の最期と、家康が実現した平和
1586年、朝日姫は夫の副田甚兵衛と離婚させられて、44歳という年齢で、徳川家康のもとへ嫁がされます。
たった一人で敵地といってもよい徳川家への輿入れは、朝日姫も心細かったはずです。
武家としての教養も知識も何もないまま育った朝日姫は、和平の生け贄となる覚悟だけを抱いていたのでしょう。
彼女は家康の居城・駿府城があった駿河国(静岡県中部)で生活したため、駿河御前と呼ばれるようになります。
朝日姫という和平のための犠牲もあって、家康は秀吉に降伏。豊臣秀長とともに、秀吉を支えるようになったのでした。
もともと病弱であった朝日姫は嫁いで数年後の1590年、京都にあった秀吉の邸宅・聚楽第で亡くなってしまいます。
その最期は母親や兄・秀吉に見守られた穏やかなものでした。
お墓は京都・東福寺。現在でも、秋の紅葉で有名な名所ですが、彼女は紅葉が散り尽くすと、まるで役目を終えたかのように息を引き取ったのでした。
朝日姫が亡くなった直後の1590年、秀吉は家康の協力によって小田原征伐を成功させ、北条氏政と伊達政宗は降伏。天下統一を達成しています。
朝日姫のおかげで秀吉からの信頼を勝ち取った家康は、豊臣政権最大の250万石という大いなる領地を手に入れ、のちの天下人としての大きな土台を手に入れたのでした。
農民生活という穏やかで自由な日々は失い、最愛の夫を失ったものの、朝日姫が我が身を犠牲にして徳川家康にもたらした幸運は、江戸幕府による260年におよぶ平和という結果を実らせたのでした。
朝日姫(旭姫)と徳川家康の夫婦仲は、良かったのか?
朝日姫と徳川家康の夫婦仲は、それほど悪くなかったのではないかと思います。
二人とも、結婚した時は40代半ばですので、子供を儲けるということは期待できなかったでしょう。
しかし家康からすれば朝日姫は、秀吉という主君から預けられた人質であり、豊臣政権ナンバー2という自分の地位を安泰にしてくれる重大な存在なのです。
福の神といっても良い朝日姫を、家康が大事にしないはずがありません。
実際に、朝日姫は家康から、かなり自由を与えられている様子がうかがえます。
朝日は1588年に、母親の大政所の見舞いのために、駿河から京都へ来ています。
その後、一度駿河へ戻っているため、家康は彼女を京都に置いたままにせず、そばに置いておこうとしている様子がうかがえます。
それから朝日姫は、いつのまにか再び京都へ舞い戻り、1589年に聚楽第で病気になって臥せっていたようです。
1590年2月18日、朝日姫は病死してしまいます。
母親の大政所や、兄や姉よりも早く亡くなるという、とても悲しい最期だったのでしょう。
家康は、そんな朝日をかわいそうだと思ったのでしょうか。京都・東福寺のお墓だけでなく、自らの居城・駿府城の近くにある瑞龍寺というお寺に分骨してお墓をつくっています。
小田原合戦へ出陣した秀吉は、帰りにこの瑞龍寺に立ちよって、朝日姫の冥福を祈り、供養塔を建てています。
話は変わりますが、1983年の大河ドラマ【徳川家康】において、女優・岩本多代さん演じる朝日姫が、家康の子・長松丸(のちの徳川秀忠)に、とても大事にされるシーンが描かれていました。
毎朝、長松丸が養母である朝日姫のもとへ挨拶に来ると、朝日姫はそんな長松丸がかわいくてかわいくて仕方ないらしく、長松丸の顔を見ることを楽しみにしていたのです。
心優しく真面目な性格の長松丸は、父・家康に尋ねます。
秀忠「養母と実母と、どちらが大事でしょうか?どちらに孝行すれば良いのでしょうか?」
家康「養母が上じゃ。正室だからのぅ」
そう返事をする家康の言葉に従い、長松丸は養母の朝日姫を大切にするのでした。(ちなみに、このとき秀忠の実母【お愛の方】は、病気で死の床にいた)
実際に、朝日姫が家康や秀忠から大切にされたと、信じたいものです。
朝日姫の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】朝日姫の辞世の句、または最期の言葉は、残されていません。
朝日姫の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】朝日姫の死後、【小田原征伐】と【江戸幕府誕生】という事件が起こりました。
朝日姫が亡くなったその年【1590年】、豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、天下統一が達成されています。
1467年、応仁の乱から始まり100年以上も続いた戦国時代は、やっと終わりをむかえたのです。
しかし、兄・豊臣秀吉はその後、朝鮮出兵を強行し、朝日姫が望んだであろう平和は実現しませんでした。
1598年に豊臣秀吉が亡くなると、朝日姫の夫・徳川家康は、天下の支配者となるために行動を開始します。
秀吉の幼い後継者である豊臣秀頼には、天下を平和へと導く力が乏しかったのです。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、天下の覇権を握ることに成功。
その後、14年にわたって平和で穏やかな時代が続いたものの、徳川家康と豊臣秀頼のあいだで、大坂の陣が勃発。
1615年、大坂夏の陣によって、豊臣秀頼は亡くなり、豊臣家は滅亡。
朝日姫の実家・豊臣家は滅びたものの、家康はその後、1868年の明治維新まで253年も続く、世界史上でもめずらしいほど長い平和を実現したのでした。
朝日姫との婚姻は、家康に圧倒的な力を与えるものでした。
その後、結果として朝日姫という存在は、豊臣家を滅亡させるきっかけとなってしまいました。
しかし、平和な時代をつくりあげた一つのきっかけとなった朝日姫という存在は、家康を飛躍させる大いなる存在だったのではないでしょうか。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,朝日姫の『死因』は?
死因は病気
2,朝日姫が【亡くなった日時】は?
西暦1590年2月18日(天正18年1月14日)
享年47歳
3,朝日姫の【最後の様子】とは?
最後の様子は、母親である大政所の見舞いのために京都へ来たのち、一度駿河へ戻ったものの再び京都へ。そのまま聚楽第に住み、病死した。
4,朝日姫の【子孫】とは?
子供がいないため子孫もいないが、姉の子孫にあたるのが現在の天皇陛下
5,朝日姫の【死後に起こった出来事】とは?
死後に【小田原征伐】と【徳川幕府誕生】という事件が起こった
以上となります。
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