MENU

早川殿(今川氏真の妻)の死因と最期!子孫のゆくえをわかりやすく解説

早川殿はやかわどのの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 早川殿の死因は病気または自然死
  2. 亡くなった日は、西暦1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)
  3. 早川殿が死んだ直後、今川氏真も亡くなっている
  4. 今川氏真と早川殿には、吉良上野介という子孫がいる
  5. 早川殿の死後、大坂夏の陣という歴史的事件が起こった

この記事では、早川殿の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

早川殿の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、早川殿の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と原因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

早川殿の【死因】と【最後の様子】

早川殿の【死因】

【結論】早川殿の死因は病死または老衰

早川殿が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)、享年不明だがおそらく70代


スポンサーリンク

早川殿の人生と活躍!足は不自由ではなかった?

生い立ちと家族背景!足が不自由とされた理由は駿河侵攻

早川殿は、戦国時代に関東を支配した名門・後北条氏の3代目・北条氏康ほうじょううじやすの娘として誕生しました。

後北条氏ごほうじょうしとは、戦国時代初期に活躍した名将・北条早雲そううんから5代続けて関東地方を支配した名門一族のことです。(鎌倉幕府を支配した北条義時の一族と区別するため、後北条氏または小田原北条氏と呼ばれています)

後北条氏は、鎌倉時代に鎌倉幕府を支配した執権・北条義時の一族とは、血筋がつながっていないものの、北条義時とおなじ北条という名前を名乗って関東の支配者としての正当性を主張したのです。(北条氏康の母親が北条義時の子孫であるという説はあるが、歴史家・小和田哲男先生は【後北条氏】と【執権北条氏】のあいだに血縁はないと言っていた)

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

早川殿は幼少の頃から、父・氏康に愛されて育ち、のちに早川という地で生活したために、早川殿と呼ばれています。実名は不明です。

2023年の大河ドラマ【どうする家康】において、女優・志田未来さんが、【糸】という名前で早川殿を演じておられました。

ドラマの設定で、糸(早川殿)は幼い頃に石段から落ちて、足が不自由になったとされていました。

しかし史実上、早川殿の足が不自由だったという事実はありません。

なぜそんな設定が追加されたのでしょうか?

これは筆者の推測ですが、1568年の武田信玄と徳川家康による今川家への侵攻の際のエピソードが関係していると考えられます。

1568年、武田信玄と徳川家康が協力して、早川殿の夫である今川氏真が支配する駿河(静岡県中部)と遠江(静岡県西部)へ侵攻。

このとき早川殿は、住んでいた駿河国の今川館から遠江国の掛川城まで、輿こしかごうまなどを使うのではなく、歩いて逃亡したのです。

早川殿はこのとき、父・北条氏康と同盟関係にあった武田信玄によって保護されるはずでした。

武田信玄
引用元ウィキペディアより

ところが保護されずに、徒歩で掛川城へ逃げたのでした。

名門・北条家の姫が歩いて逃げるなど、通常はあり得ないことです。

娘が歩いて逃げたという事実を知った父・北条氏康が、武田信玄に対して激怒したほどです。(実際に北条氏康は、このことが原因で武田信玄と敵対し、徳川家康や宿敵だった上杉謙信と同盟してまで武田信玄を攻めようとし、一時期武田信玄は窮地に陥った)

おそらくですがこのとき、早川殿の足には相当な負担がかかったはずです。

きっと早川殿が歩いて逃げた苦労を強調するために、ドラマ【どうする家康】では、糸(早川殿)は足が不自由という設定になったのでしょう。

ちなみに、1988年の大河ドラマ【武田信玄】では、早川殿は今川氏真に置き去りにされ、同じく歩いて掛川城へ逃亡した設定になっていました。このとき足が不自由だったという設定はありませんでした。


スポンサーリンク

戦国時代を生き抜いた女性としての【早川殿】の役割とは?

早川殿は、北条氏康と今川義元が同盟を強化するために、政略結婚で今川義元の息子である今川氏真に嫁いだのでした。

今川氏真
引用元ウィキペディアより

  • 甲斐(山梨県)の武田信玄
  • 相模(神奈川県)の北条氏康
  • 駿河(静岡県中部)の今川義元

この三者が同盟を締結したのですが、そのとき各国から政略結婚のために、三者の姫が各地に嫁いだのでした。

  • 武田信玄の娘が、北条氏康の息子・北条氏政うじまさと結婚
  • 北条氏康の娘(早川殿)が、今川義元の息子・今川氏真と結婚
  • 今川義元の娘が、武田信玄の息子・武田義信よしのぶと結婚

つまり、早川殿は北条家と今川家の同盟関係を強化するために、北条家から今川家へと嫁いだのでした。

また、これは筆者の勝手な推測でしかありませんが、早川殿の存在は、今川氏真の命を救った可能性があります。

1568年、徳川家康は掛川城に籠城する今川氏真を攻撃しますが、結果として氏真は開城し、早川殿の父である北条氏康に保護されています。

徳川家康が掛川城を力尽くで落とさず、氏真と早川殿の命を救ったのは、一体なぜなのでしょうか?

  • 家康は城攻めが下手だった
  • 掛川城の守備兵2000が強かった
  • 家康は恩人である今川義元の息子・氏真を殺したくなかった

色々な説があると思いますが、筆者は家康が、北条氏康と協力して武田信玄を駿河(静岡県中部)から追い出すために、早川殿を助けようとしたのではないかと考えます。

この掛川城攻城戦のとき、家康は遠江(静岡県西部)を攻略し、信玄は駿河を攻撃していました。

そして早川殿の父・北条氏康は、早川殿を救出するために相模(神奈川県)から駿河へ侵攻していました。

今川家が滅亡すれば、徳川家康が支配する地域である遠江・三河は、武田信玄の支配地域である信濃・駿河と国境を接することになるので、必然的に家康は、信玄と戦わざると得なくなります。

そのとき、相模の北条氏康が味方についてくれれば、遠江と相模から、駿河の信玄をはさみうちにできます。

北条氏康を味方にするためには、恩を売るのが一番。そのためには、掛川城にいた早川殿を助けて、生きたまま北条氏康へ送り届けるのが一番良い作戦です。

実際に、徳川家康は北条氏康と協力し、さらには上杉謙信も味方につけ、一時的にではあるものの、徳川・北条・上杉で武田信玄を駿河から追い出すことに成功しています。

以上は筆者の勝手な妄想ですが、早川殿はおそらく自分でも知らないうちに、夫・氏真の命を救っていたのではないでしょうか。


スポンサーリンク

早川殿の晩年と死因

【結論】早川殿は晩年を、家康から与えられた江戸・品川の屋敷で夫・氏真と共に過ごした。

晩年の生活と状況

1569年、今川氏真が徳川家康に降伏し、今川家が事実上滅亡すると、早川殿は氏真にしたがって、各地を転々とすることになります。

遠江・掛川城から、氏真と早川殿は、彼女の実家である相模へと避難します。

1570年頃、彼女は相模・小田原のちかくにある早川郷へ移り住んでいます。(現在の神奈川県小田原市早川のこと。これが彼女が早川殿と呼ばれた理由です)

1573年、早川殿と氏真は、北条家から去って、浜松の徳川家康を頼ります。

1582年、家康が本拠地を駿府へ移すと、早川殿と氏真も駿府へ引っ越したと考えられます。

1590年、早川殿の実家・北条家が、豊臣秀吉によって滅ぼされると、今度は京都へ引越し。

1612年、氏真と早川殿は、徳川家康の住む江戸の品川に屋敷を与えられ、そこで生活しています。

1613年、早川殿は夫より先に、亡くなるのでした。

早川殿の実家である北条家が滅亡したものの、彼女の生活は平穏なものであったと考えられます。


スポンサーリンク

死因と時代背景

早川殿の死因ははっきりしていませんが、かなりの高齢であったため、病気または老衰による自然死であったと考えられます。

おそらく彼女は70代であったため、病死・自然死の可能性が高いでしょう。

彼女が亡くなった1613年当時の日本は、1600年の関ヶ原の戦い以降、天下を支配していた豊臣家が急速に衰退し、徳川家が日本を支配していた、戦争のない比較的安定した時代でした。

彼女はそんな穏やかな日々を過ごしながら、静かに亡くなったのでした。


スポンサーリンク

早川殿の最期の様子

【結論】早川殿は1613年、江戸で夫の氏真より先に亡くなった。

子孫には、江戸時代の吉良上野介という人物がいる

遺言と遺産・子孫

早川殿は1613年に亡くなっています。おそらく江戸・品川にあったという今川氏真のお屋敷で亡くなったのでしょう。

早川殿の遺言や遺産に関する記録は残されていません。

今川家の領地などは、彼女と氏真の子孫に引き継がれることになります。

早川殿と氏真の子孫は、その後徳川幕府で、高家という、領地は少ないが身分は高い家としてあつかわれることになります。

そんな二人の子孫は、明治維新まで続くことになります。

二人の子孫には、忠臣蔵で有名な悪役・吉良上野介きらこうずけのすけがいます。

悪役とされる吉良上野介ですが、実際には領民を大切にする優しいお殿様だったといわれています。

また、吉良上野介の孫の孫にあたる名君・上杉鷹山うえすぎようざんも、早川殿の子孫ということになります。

→→→→→→【今川氏真と早川殿はやかわどのの子孫が現代も活躍している】についてくわしくはこちら

葬儀と墓所

早川殿の葬儀は、出家していた彼女の四男・澄存ちょうぞんが高野山でおこなったとされています。

彼女のお墓は、高家・今川家の領地であった東京都杉並区今川2丁目の観泉寺かんせんじにあります。

早川殿は、今も夫の今川氏真とともに、眠っているのです。


スポンサーリンク

早川殿の死後の影響と評価

【結論】早川殿の死後、今川氏真があとを追うようにして亡くなっている。

早川殿は、夫・今川氏真を救っているため、賢夫人と評価する声もある

彼女の遺志と家族のその後

早川殿の死から2年後、今川氏真が後を追うようにして亡くなっています。

戦争によってその人生を破壊され、嫁ぎ先の今川家も、実家である北条家も事実上滅亡した早川殿でしたが、彼女が亡くなった2年後の1615年に大坂夏の陣を最後に、戦乱の世は終わることになるのです。

今川家は、早川殿の子供によって継承され、明治維新を迎えることになります。

また、早川殿の実家・北条家は、1万石という小さな領地を維持して、明治維新をむかえることになるのです。

今川・北条・武田という、早川殿を翻弄した三つの国は、結果としてすべて事実上滅亡することになるのです。

→→→→→→【今川氏真の最期】についてくわしくはこちら


スポンサーリンク

歴史的評価と記念施設

早川殿は、嫁ぎ先を滅亡から救うことができなかったため、政略結婚の目的を達成することはできなかったと思います。

しかし、夫・今川氏真を守り抜くという、妻としての役割は、これ以上ないほど立派に達成。賢夫人と評価する声もあります。

実は、今川・武田・北条の三国同盟で、政略結婚した人々は、いずれも悲惨な最期を遂げています。

今川義元の娘が嫁いだ武田信玄の息子・武田義信は、父の信玄によって自害を命じられて亡くなります。(義信の妻だった義元の娘は、実家へ戻されたのち記録がないため、その後の消息が明らかではない。)

武田信玄の娘が嫁いだ北条氏康の息子・北条氏政は、1590年に豊臣秀吉に攻められて切腹しています。(氏政の妻だった信玄の娘は、夫から愛されて多くの子供を産んだものの、武田と北条の同盟が破綻した翌年の1569年に27歳で病死している)

苦難に決して負けなかった早川殿の生き方は、現代でも評価する声が多いようです。

彼女が生まれ育った名城・小田原城などの歴史的価値ある記念施設は、今も残されています。


スポンサーリンク

早川殿の実家【後北条氏】と北条義時の関係

先ほども申しましたが、早川殿の実家である後北条氏または小田原北条氏とも呼ばれる北条早雲から五代続いた北条氏と、鎌倉幕府の執権をつとめた北条義時から始まる北条氏のあいだには、どのような関係があるのでしょうか?

結論からいえば、血縁は無い、と歴史家の小和田哲男先生がおっしゃっておられます。

その件については、小和田哲男先生の10分弱の解説動画を以下に貼り付けておきます。

2023年の大河ドラマ【どうする家康】に登場する今川氏真の妻【糸】(早川殿)と、2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の十三人】の主人公・北条義時のあいだには、血縁は無いということです。

余談かもしれませんが、【どうする家康】に登場する足利義昭は、北条義時の子孫にあたります。

詳しくは以下のリンク記事で解説しております。

→→→→→【北条義時の子孫】についてくわしくはこちら

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,早川殿の『死因』は?

死因は病死または老衰

 

2,早川殿が【亡くなった日時】は?

西暦1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)

享年不明

 

3,早川殿の【最後の様子】とは?

最後は江戸・品川の屋敷で、静かに亡くなった

 

4,早川殿の【最期の言葉】とは?

辞世の句または最後の言葉は残されていない

 

5,早川殿の【子孫】とは?

子孫は忠臣蔵で有名な悪役・吉良上野介

 

6,早川殿の【死後に起こった出来事】とは?

死の直後に夫・今川氏真が亡くなった。大坂夏の陣という事件が起こり、平和な時代が訪れた

以上となります。

戦国時代の女性・早川殿は、その生涯と遺産を通じて、時代を超えた影響力を持ち続けています。

彼女の死因や最期については謎が多いものの、その勇敢さは現代においても語り継がれています。

これからも、早川殿の功績やその精神性は、歴史の一部として受け継がれていくことでしょう。

本記事では、早川殿の死因と最期に焦点を当て、その生涯と遺産を紐解きました。

彼女の物語は、戦国時代の女性武将として、後世に多くの影響を与え続けることでしょう。

今後も、早川殿の歴史を学び、その勇気や知恵から学ぶことが、私たちにとって大切な財産となるであろうことを願っています。 

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次